書評
2022年1月号掲載
江國香織『ひとりでカラカサさしてゆく』刊行記念特集
心象の風景で織られた家族と時代の“タペストリー”
対象書籍名:『ひとりでカラカサさしてゆく』
対象著者:江國香織
対象書籍ISBN:978-4-10-380811-4
「人は死ぬと風景になる」。学生の頃、ある文化人類学者の著作を読んでいて、こんな一文に出くわしたことがある。どういうことだろう? わからないながらも気になり続けたフレーズだが、本作にはその深みが描かれていると感じた。人はこの世におサラバしても、残された者たちの“心象風景”の中で生き続ける。
物語の冒頭はミステリーのようだ。大晦日の夜、東京駅近くのホテルに集った三人の男女が心中を遂げる。部屋に持ちこんだ猟銃を用いて……。事件の当事者である篠田完爾、重森勉、宮下知佐子の三人は、1950年代の終わりに、ある美術系出版社に勤めたことで知り合い、会社が潰れたあとも学生時代のサークル仲間のような濃密なつき合いを続けていた。
三人の家族(子供・孫)や知人(元部下・教え子ら)は戸惑いを隠せない。いずれも八十歳を超えた老人たちが、なぜ、そんな「とっぴょうしもない」ことをしでかしたのだろう? 理由がわからないだけに、やるせなさもつのる。本作では、そんな喪失感を抱えた九人の親類縁者による断片的ストーリーが、パラレルにつむがれていく。
残された者たちは、亡き人たちの「存在」をそれぞれの記憶の中から探し出そうとする。九人のエピソードはバラバラのようでいて、根っこの部分でつながっている。記憶と記憶がリレーされる中で、在りし日の三人の姿が、ホログラムのように浮き上がってくる。物語として綴られた“家族アルバム”を眺めているような気持ちにもなる。
しかし、亡き人への温度感と距離感は、人によってまるで異なる。たとえば、篠田完爾の息子・東洋にとって父親は、不可解な人物に思えて仕方がない。「孤独なマイホーム人」として描かれるこの会社役員には、彼の親世代の人々が、ときに家族関係以上に重んじる“同志愛”がわからない。父とともに逝った親友二人の縁者との関わりも避けたがっている。
一方で、孫の葉月は、祖父の行動がわかるような気がしている。アンデルセン研究のためデンマークに留学中の彼女は、祖父が亡くなって以来、その存在を「常に身近に」感じており、空想の中で語りかけるようになる。宮下知佐子の孫で小説家の踏子や、知佐子と疎遠になっていた朗子(知佐子の娘)とのやりとりも重ねる。
篠田完爾、宮下知佐子と違って、重森勉には家族がいなかった。出版社を辞めた重森が創業した会社の社員だった河合順一は、元社長のために奔走し、ほぼ面識がなかった三人の親類縁者同士をつなごうとする。そんな河合が経営する小さな雑貨店を、篠田完爾の娘・翠(東洋の妹)が不意に訪れ、この出来事について語り合ったりもする。
このように“在りし人の不在”に対する九人九様の「アングル(視線)」と「フレーム(人生観)」が、作品内を行き交いながら、彼ら自身の現在も写し出される。物語の後半からは、登場人物たちもパンデミックの世界に投げ出されるが、そんな現実社会とは別次元にあるかのごとく、ホテルのロビーに集った三人のその日の光景が、ときおりフラッシュバックのようにインサートされる。
物語を走る縦糸と横糸。交錯する自己と他者、そして死者。その接点に照らし出されるスライス・オブ・ライフ。読み進めるにつれ、ふと気づく。登場人物たちの心象風景が一枚の布のように編まれていることに。そこに織りなされる“人間模様”は、まるで北欧調のタペストリーだ。どことなく静寂で、ときによそよそしいまでにクールだが、そこはかとないぬくもりもあるような。
描かれるのは人間模様だけではない。福寿草、八手、コスモスといった作中に描かれる花や植物は季節の移ろいを感じさせる。特製ミートパイや桜の葉で〆た小鯛、和菓子の「あも」、釜あげしらす弁当など、食べ物はおいしそう。こうした生命感のオブジェたちが、彼らの喪失感を癒すかのように、“布”の上に周到にデザインされている。そう思うとこの小説は、どことなく宗教画のようだ。
本作を「世代間の断絶」と「つむぎ直される連帯」の物語として読むこともできるだろう。三人の死が示唆するのは、ひとつの時代の終焉だ。死を目前にして、重森勉はしみじみこう語る。「俺は二人に感謝してるよ。いや、今回のことだけじゃなくて、ずっとさ、あんたがたみたいなのとおなじ時代を生きられてよかったと思ってる」
人と一緒に時代も逝く。ラウンジで三人が話題にする童謡の情景のように、カラカサさして、雨の中を。残された人々は虚しい思いにとらわれるが、やがて陽がさして、すべてが懐かしい風景に変わっていく。
(かわじり・こういち 編集者)