書評
2022年1月号掲載
不要不急が人生必須になる
乗代雄介『皆のあらばしり』
対象書籍名:『皆のあらばしり』
対象著者:乗代雄介
対象書籍ISBN:978-4-10-354371-8
登場人物が少ない。実質的にふたりだけ。そのふたりも毎度おなじ場所で会って話すのだが、その場所はこんなふうに紹介される。
平日の皆川城址に人は滅多に来ない。栃木駅からだいぶ離れていて、観光客も車で来るしかないようなところだけれど、今日も一台だって見当たらない。山の斜面を削るなり盛るなりして平らに作った曲輪が螺旋状につくられて、その見た目から法螺貝城とも呼ばれている。
つまり周囲にもほとんど人がいないわけだ。前作『旅する練習』で三島賞を受賞した乗代雄介の新作はこうして純粋な対話劇というか、いっそ対談と呼ぶほうが適切かもしれない独特な外観を呈している。もちろん実際には会話のあいだに地の文があるので(右の引用はその一例)、正確に言うなら、これは対談の活気と小説の秩序をあわせもつ何かということになるだろう。
その限定された空間のなかで、ふたりは何を話すのか。無限の時間について話す。すなわち歴史だ。主人公の「ぼく」は高校生で、歴史研究部に所属している。その部活動の一環として皆川城へ調査にやって来たところからこの物語は始まるのだ。
「ぼく」はそこで男と出会う。三十代か。体はたくましいし、関西弁だし、何より深い知識がある。つい「ぼく」はひるんで、調査への男の参加を承諾したばかりか、その調査に関してこれこれの情報を集めろと逆に言いつけられてしまう。男の興味は本にあった。「ぼく」の見せた資料のなかに小津久足(おづ・ひさたり)著『皆のあらばしり』という書名をみとめたのである。
小津久足は実在の人物である。江戸時代後期、伊勢松坂出身の豪商で、号は桂窓(けいそう)、こんにちでは良質の蔵書家として名高いが、この人はまた全国を歴遊した旅行家でもあったから、なるほどこの皆川の地にも来て、同好の士に自著をあたえたか書き写させたかした可能性はあるわけだ。
もしも実物が出現すれば新発見。「ぼく」はにわかに意欲が出て、せっせと情報を集める。それを男に提供する。男はそれを聞いたり読んだりして、有益な話もするけれど脱線もする。たとえば現代における社会人がゴルフ等のいわゆる接待をやることに関して、
「接待術はな、結局は思わぬことを覚えておいてくれたっちゅうことに尽きるんや」
深い省察のような、軽薄な処世訓のような手ざわりの警句。どっちも高校生には一種のあこがれ。
こんなふうにして「ぼく」は歴史をまなび、人生をまなぶ。しかしこれは反面において、男の忠実な子分になりさがることも意味するだろう。少なくとも忠実な生徒ではある。それはどうなのか。蛹(さなぎ)は蝶にならなくていいのか。
考えてみれば、対談の目的というのは一方的な訓示にはない。相手を論破することにもないし、そもそも共通の結論を得ることにもない。
結論を得ようとして良質の刺激をあたえあう、いわば知性と感性の陶酔にあるのだ。そのためには対談者ふたりは人間的に対等でなければならないけれども、その対等に「ぼく」はなれるか。この圧倒的な相手に対してどう自分の本領を打ち出すことができるか。
このへんのところから、おそらく本書は真のテーマを見せるのだろう。単なる成長物語の域をはるかに超える所以(ゆえん)である。江戸時代の豪商が書いた本が実在するかどうかなどという不要不急の問題は、こうして気がつけば「ぼく」を、いや私たち読者を、人生必須の問題に直面させていたのである。
文章は『旅する練習』でもそうだったように、静かで清潔。高校生の心理の微妙なゆれも、客観的な歴史情報もおなじように語ることのできる汎用性の高さがある。
そうして何しろ読みやすい。その秘密を冒頭の引用にさぐるなら、「ない」や「なり」のさりげない連続あたりが一因だろうか。ことばの上っ調子に流れないリズムのよさもまた、考えてみれば、人間の知性と感性のために必須の条件かもしれない。
(かどい・よしのぶ 小説家)