対談・鼎談
2022年1月号掲載
川村元気『神曲』刊行記念対談
物語から響く音楽
角野隼斗 × 川村元気
最新長編『神曲』で音楽を重要なモチーフとして描いた川村元気さんと、YouTubeでも活躍するピアニストの角野隼斗さん。
ショパン国際ピアノコンクールのセミファイナリストとしても注目された角野さんは、小説からどんな音を聴き取ったのか。第一線で活躍する二人の、刺激的対談。
対象書籍名:『神曲』
対象著者:川村元気
対象書籍ISBN:978-4-10-354281-0
角野 『世界から猫が消えたなら』を拝読していて、好きだったので、今日はお会いできて嬉しいです。『神曲』も面白く読ませていただきました。
川村 ありがとうございます。僕のほうは、知人から最近すごいピアニストがいると教えてもらって、「かてぃん」(※角野さんのユーチューバー名義)のYouTubeを拝見していたんです。そこから入ったので、ショパンコンクールに出られているのを観て、クラシックのピアニストとしてもここまでの活躍をされているんだと驚嘆しました。しかも音大を出てらっしゃるわけではなく、東大なんですよね。
角野 そうですね、気づいたらこうなっているという感じで(笑)、わりと特殊な人生を歩んでいるかもしれません。
川村 東大に行ったのは、何か勉強したいことがあったんですか。
角野 というより、自分は音大には向いていないんじゃないかと思ったんです。小学校の頃はクラシックピアノをやっていたんですが、中高でロックや電子音楽にハマって、ふと、このまま音大に行ったとして、果たして僕は朝から晩までクラシックばかりで満足できるんだろうか、と思ってしまって。一方で、数学も好きでしたし、東大に行っても音楽はできるなと思ったので、そちらを選びました。
川村 それで東大の理Iに行けてしまうのもすごいですよね。東大ではどんなことをやられていたんですか?
角野 工学部の計数工学科というところで、簡単に言うと数学的な問題をコンピュータで解くんですが、僕はその中でも音に関する研究をしたいなと思って、学部時代は、音源分離という、マイクの空間的な情報を使って音を分離する――たとえば合奏の中でピアノの音だけを分離するとか、たくさんの人が喋っているのを一人ずつ分離するとか――ということをやっていました。大学院に入ってからは、音を自動で楽譜にして、それをアレンジに応用するというようなことをやりました。趣味でやっていた耳コピや編曲を機械にやらせられないかなと思って。
川村 面白そうな研究ですね。それに少し関連することをお話ししますと、僕は『神曲』の前に『百花』という小説を書いたんですが、それを今、自分で監督して映画化しています。認知症になっていく母親と一人息子の記憶をめぐる物語なのですが、その母親がピアノの先生なので、映像化にあたって改めて、認知症の人の頭の中で音楽はどう鳴っているんだろう、と考えました。それで、バッハのプレリュードを弾いているうちに、本人の頭の中でメロディーがバラバラに瓦解して、全然違う曲に再構成される、というのを映画の中でやってみようと。すると、変わったとしてもやっぱりこれはプレリュードだなと思えたりして、興味深かった。『百花』では網守将平さんという若い作曲家と一緒にそういう実験的なことをやっているんですが、角野さんも、クラシックの曲を面白いアレンジで弾いたりされていますよね。
角野 そうですね。最近そういうことをしている人たちが世界中にいて、いわゆるポストクラシカルと呼ばれるジャンルを作っていますよね。モチーフを使って、曲を再構成……リコンポーズ、リワークするという。メロディって、それに付随するものがどうであるかによって、つまり文脈によって、聞こえ方が全然変わるのが面白いんです。
目盛りが振り切れる瞬間
川村 僕はクラシックに限らず、ジャズやロックなどの音楽も好きですが、中でもアイスランドの音楽を聞いていると、理屈なく涙が出てくることがあって、神に触れるのに近い感覚なのかなと思うことがあります。そういう瞬間って、プレイヤーにもありますか。
角野 ありますね。しかもどういうわけか、本番で弾いているときになることが多いです。僕はやっぱりピアノコンチェルトを弾いているときが一番楽しいんですけど、生のオーケストラが目の前で鳴っていて、それと一緒に音楽を作っていく。そうすると、本当に、自分の感情の目盛りが振り切れてしまうような圧倒的な瞬間があります。言葉ではうまく説明できないですね。
川村 今回、『神曲』を書くにあたって様々な宗教を取材したんですが、ほぼすべての宗教が、音楽的な要素を取り入れている。聖歌もそうだし、念仏や祝詞とかも音楽的だし。教会に行って合唱やパイプオルガンを大音量で聴くと、それだけで胸打たれるじゃないですか。あの感覚が、神に対して畏怖の念を抱くという感覚に近いのかなと思うんです。
今作を『神曲』というタイトルに決めた理由の一つとして、小説を音楽的に書こうと思ったんです。「神」というものを描こうとしたときに、第一楽章から第三楽章まである楽曲みたいに、同じ神を描いていてもまるで違う音楽が聞こえるようにしたかった。
角野 たしかに文体も全然違いました。タイトルはダンテからとっているんですか。
川村 はい。ダンテの『神曲』はご存知の通り、地獄篇と煉獄篇と天国篇という三つにわかれていますが、なんで三つなんだろうとまず思ったんです。「神」のような、目に見えないものを描くときに、一人の目線だと偏る。二人だと対立構造になってしまう。三角形で描くと、そこが立体的に見えてくるのかなと思って、僕も、「信じられない父」と「信じきってしまった母」と、「その両親の間で揺れる娘」という三篇構成で描くことにしました。
角野 いろんな視点で話が進んでいくのが新鮮でした。僕はもともと、どちらかというと「信じない」側の人間ですが、「信じる」人は、どうしてここまで信じられるのだろう、と思いながら興味深く読みました。第二篇を読んで思ったのは、信じることを選択するというより、信じざるをえない、というほうが近いんだろうなということです。
川村 僕も、「信じられない」側の人間です。ヨーロッパに行くと、宗教が生活の中に根付いている。クラシック音楽も、もともとは宗教音楽ですよね。一方で日本に住んでいると、深く信じていない人たちがマジョリティです。クラシックをやるにあたって、キリスト教というベースがあるヨーロッパの人と日本人とで、プレイに何か差があると思いますか。
角野 ヨーロッパでも、自分と同年代くらいだと、第二篇のお母さんのように「本気で信じている」人は、そんなに多くない気がします。かといって、全く信じていないかというとそうでもなくて、我々が神社に行ったら何の疑問も抱かず手を合わせるのと同じように、自然と根付いた文化として受け入れている、というぐらいの距離感なのかなと思います。僕も別に特定の宗派はないけど、そういうものに生活の中で触れることはあるし、神社やお寺にふらっと行くこともある。
ただ、日本人として西洋音楽を演奏することについては僕もよく考えます。たとえばショパンを演奏するときに、やっぱりポーランドの人が一番理解できるんじゃないか、海外の人間にはわからない何かがあるんじゃないかと思ってしまったりもする。でも、ポジティブに考えると、それが演奏の多様性に繋がっているような気もするんです。たとえばロシアの人ってどこか音楽も壮大に捉えるところがある。彼らはそれを自信を持ってやっているし、実際それはそれですごく面白い。そこで新たなショパンが生まれるということはあると思います。
川村 僕は物語を作る仕事をしていますが、韓国の映画や小説って、どこかキリスト教が根っこにある作品が多くて、だから海外の映画祭などで伝わりやすいのかなと感じるんです。日本でも、たとえば手塚治虫さんなどはキリスト教的なコンテクストがある。実は僕も、親族に熱心なクリスチャンがいたので、小さい頃から聖書を読んで育ちました。
日本人でありながら西洋の神の物語を読んできたので、そこに対する違和感はずっとあったんです。ただ、それがベースにあるうえで自分のオリジナルの物語を語ると、世界中どこでも理解してもらえると感じることがあります。クラシックでも、似たようなことがあるのかもしれない。
角野 そうですね。今、西洋音楽は西洋だけのものではなくなっていて、アジアのプレイヤーもかなり多くなっていますが、たとえば日本の芸術に感じる引き算の美学のようなものって、ショパンの曲にある美意識に近しいんじゃないかと思うことがあります。西洋で成り立った音楽を理解しようとするのももちろん大事ですが、自分が育ってきた環境に置き換えて考えてみるという視点を持つのはきっと、悪いことではないと思っています。
川村 角野さんが今後、もし作曲もしていくのならば、クラシックのベースは絶対あった方が強いと思います。たとえば坂本龍一さんの場合はドビュッシーやラヴェルなどフランスの音楽がベースにありますよね。
角野 坂本さんの音楽も好きです。著書の中で、自分はドビュッシーの生まれ変わりだと思っていたということをおっしゃっていましたよね(笑)。
川村 西洋的なベースに東洋的なセンスが入ってくると、グローバルでコミュニケーションが取れるのかなって思うんです。
角野 まさにドビュッシーですね。僕も何かを作るということに憧れを抱く人間なので、作っていきたいなと思いつつ、何を作ればいいかなっていうのをずっと迷いながらやっています。
川村 坂本龍一さんの話で言うと、藝大を出たあと、ソロアルバムをシンセで作るというのが面白かったですよね。
角野 すごいですよね。
川村 あと、映画音楽をやったというのはやっぱり大きかったと思います。現代においてクラシック出身の人がコンポーザーになっていく場合、映画とセットであることが多い。坂本さんの場合は、『戦場のメリークリスマス』と、『ラストエンペラー』からそうなっていった。そう考えると、物語に対して音楽をつけることに角野さんが興味があるかどうか、伺ってみたいです。
角野 興味はとてもあります。フランツ・リストという作曲家が僕はすごく好きなんですが、彼もダンテの『神曲』からインスピレーションを受けた曲を書いています。なので僕も書いてみたいな、と。
川村 角野さんの音楽を聴いていると、クラシックの演奏家でありながら、作曲家の道に足を踏み入れようとされているのかな、と感じます。いまはショパンコンクールの演奏が、あまりにもインパクトが強くあるのですが。
角野 ショパンコンクールに出たのは、ショパンをうまく弾けるようになりたいというよりは、ショパンに憧れがあったからなんです。今クラシック音楽というと、もちろん現代音楽と呼ばれるものもありますが、普通は、百年、二百年前の音楽を演奏することを指します。でも、当時それはその時代の新しい音楽だったわけで、今でいうポップスのような音楽を、僕らがクラシックと呼んでいるだけで。ショパンだってリストだって、演奏家であると同時に作曲、アレンジ、即興もしたし、おそらく当時の「クラシック」であるバッハやベートーヴェンだって演奏して、それがナチュラルにまじりあっていたはず。そういう時代がすごく羨ましくて。その当時のショパンがどんなふうに弾いていたか、僕はそこを目指したいなって思っていたんです。
川村 角野さんは演奏家としてのレベルはもちろんとんでもないと思うんですけど、そこから自分の音楽を作るときにきっかけが何になるのかを考えてみると、おこがましいけど、やっぱり物語なのかなと思うんですよね。映画なのか、小説なのかわからないけれど、作品にインスパイアされるというようなこと。それで今回ぜひ、お話ししてみたいなと思ったんです。
僕は映画作りにおいて、映像に音楽をどう関係させるかということをずっと考えてきました。それまで映画音楽といえば、クラシックの系譜の方々にお願いするのが通例だったのですが、そうではなくバンドに依頼するというのが、僕がここ数年やってきたことです。『君の名は。』では、RADWIMPSに、『バクマン。』ではサカナクションに依頼しました。でも実は最近、またクラシックや現代音楽の文脈の方々が面白いなと感じるようになってきていて。『百花』をお願いした網守さんや、『竜とそばかすの姫』でご一緒した坂東祐大さんみたいに、三十代の面白い作曲家がどんどん出てきている。なので今日は、角野さんも興味があると伺えて嬉しいです(笑)。
角野 ありますよ(笑)。
川村 一方で、これは単なる外野の憶測なんですけど、角野さんほど弾ける方だと、自分の書く曲の基準も上がりすぎてしまって、苦しくなったりはしませんか。
角野 うーん、プレイヤーでもあることの問題としては、僕は作曲する時、それを弾いている自分までセットで考えることがほとんどでしたが、映像作品のための音楽を作るにあたっては、プレイヤーの視点を意識的に排除する必要があるなという気がしています。演奏者の顔が透けて見えることで作品を邪魔してはいけないと思うからです。
川村 坂本龍一さんは、そこから『戦場のメリークリスマス』で新しいゾーンに入られたのだと想像します。映画音楽は基本的にプレイヤーの顔が見えては駄目で、俳優のお芝居と、物語がよく見えなきゃいけない。『戦メリ』は、俳優としてのオファーが先だったそうです。俳優として出てくれと大島渚さんに言われたと。
角野 それで、音楽をやらせてもらえるならやります、とおっしゃったんですよね。
川村 自分の芝居の駄目なところを自分の音楽でサポートしようと思った、と以前『仕事。』という本で対談させていただいた時に伺いました(笑)。そのために映画音楽を研究されて、結果、映像がいいところに音楽はいらない、音楽は映像が弱いところにつけるんだと気づいた、とおっしゃっていました。映画と音楽の関係を、最も端的に言い表しているエピソードだと思います。
角野 『戦場のメリークリスマス』については坂本龍一さんの自伝で僕も読んだことがありますが、自分の演技をサポートするためだったというのは初めて知りました。
川村 根掘り葉掘り聞いて、教えてもらったんです(笑)。
悪魔と神のモチーフ
川村 『神曲』は小説でありながら音が鳴りっぱなしでした。小鳥店で鳥が鳴いていたり、聖歌が歌われたり。角野さんの頭の中ではどんな音が鳴っていたか、ぜひ伺ってみたいです。
角野 このシーンでこんな音、というよりは、全体を通して一曲の構成のようなものを思い浮かべました。最初に通り魔という悪魔のような人間が現れて、一家の息子が殺されてしまうわけですけど、そこが「悪魔のモチーフ」だとしたら、段々とそれが展開していったあと、最後にそのモチーフがもう一度現れて、でも今度は別の結末になる。だから最初のモチーフとは聞こえ方が変わる。ハッピーとまではいかないけれど、昇華されて終わるみたいな、そういうイメージを持ちました。
川村 なるほど、面白い。最初の通り魔を「悪魔」と捉えたんですね。そして今言われてはじめて気づきましたけど、たしかに最初と最後は対になっているんだ。
角野 あ、そういうことではなかったんですか。
川村 いや、自分で書いたのに、全然意識してなかったです(笑)。でも指摘されてみると確かにそうですね。やっぱり僕は聖書癖があるのかもしれない。聖書って、ヨブ記とかもそうですが、まず試練がある。それで打ちのめされて、最後に同じような試練が与えられたときにそれを乗り越える、というプロットが多い。自分でも気づかないうちに自然とそうなっていたのかもしれません。
それにしてもその曲、ぜひ聞いてみたいです。どんな音が鳴るんだろう。
角野 悪魔の音程というのがあって、増四度、一番の不協和音ですね。リストがよく使います。彼の曲「ダンテを読んで」の冒頭もそうですね。こういう協和しない音で悪魔的なものを描いていることが多いと思います。
川村 だとしたら、神を象徴する音もあるんですか。
角野 完全五度でしょうか。一番協和する音。和音の中に第三音の入らない五度には、神を感じます。ショパンはこの音を効果的に使いますよね。
川村 面白い。それでこの小説的な曲ができていったりもするのかな。映画音楽をやると、作曲家は皆大変で、ボロボロになっているけど、いつかぜひご一緒できたら嬉しいです。
角野 はい。今のお話でビビってますが、物語に基づいた音楽は好きなので、ぜひ(笑)。
(すみの・はやと ピアニスト)
(かわむら・げんき 小説家/映画プロデューサー)