対談・鼎談

2022年1月号掲載

小泉今日子『黄色いマンション 黒い猫』文庫化記念対談

私と彼らのあの頃

小泉今日子 × 高崎卓馬

アイドル全盛期といわれた1980年代。小泉今日子は歌手として多忙な毎日を
送る中で「私」にもあった普通の日常をエッセイに綴った。
一方で、アイドル・小泉今日子を追いかける少年たちの青春の日々を
小説に描いた高崎卓馬が、あの頃のファンとの関係性、
自分の記憶を綴るということについて小泉に聞く。

対象書籍名:『黄色いマンション 黒い猫』(新潮文庫)
対象著者:小泉今日子
対象書籍ISBN:978-4-10-103421-8

高崎 雑誌「SWITCH」で連載していた小泉さんの「原宿百景」(二〇〇七~一六年)が大好きでした。そこに小泉さんが綴るエッセイをまとめた本『黄色いマンション 黒い猫』が文庫化されましたが、連載当時からいつも楽しみに読ませていただいていました。

小泉 わあ、うれしいです。ありがとう。高崎君は広告業界の人。でも、映画やドラマの制作に関わったり、執筆活動もしていて、アイドル時代の私、小泉今日子が登場する小説を書いているんだよね。

高崎 アイドル全盛期と言われた一九八〇年代を舞台に、『オートリバース』という本を書かせていただきました。デビュー間もない小泉さんを、ファンとして夢中で追いかけることで、自分たちの居場所を見つけながらも、様々なことに直面していく十代の少年二人の姿を描いた青春小説です。

小泉 私は『黄色いマンション 黒い猫』の中で、幼少期から現在までの自分の思い出を綴っているのだけれど、高崎君が小説に描いている、私がアイドルだった時期のことも書いています。私がエッセイに書く、自分にとって普通の日常の中にいる小泉今日子と、高崎君が小説に描く、アイドル・小泉今日子。一人の人間のことなのに、立場も視点も全く違うから、二冊を読むと不思議な感覚に陥るんだよね。まるで、小泉今日子という人の表と裏を見ているようで、すごく面白いの。

小説に描かれた小泉今日子の親衛隊

小泉 そもそも私のことを……というよりも、“小泉今日子”という実在するアイドルを題材にした小説を書こうと思ったのはどうしてだったの?

高崎 小泉さんから、直接、アイドル時代の話を聞いたことが大きなきっかけです。友人の吉田玲雄君が書いた『ホノカアボーイ』というエッセイがあるのですが、十年くらい前に、僕が脚本を書いてその本を原作とした映画を製作したんです。玲雄は昔から小泉さんと仲が良くて、映画が公開された後、みんなで食事会をしたんですよね。

小泉 原作には私も登場します(笑)。

高崎 僕が作詞をした映画の主題歌も小泉さんに唄っていただきました(笑)。その食事会の時、小泉さんの横に見知らぬ女性がいらした。ハーちゃんという方で、聞くと、小泉さんが一九八二年に歌手デビューした頃からのファンの一人とのことでした。お二人から当時のアイドルについていろいろと伺っているうちに、“親衛隊”というワードが出てきて、すごく興味をそそられたんです。

小泉 あの頃は、アイドル一人ひとりに親衛隊と呼ばれる熱心なファンがついていて、私たちを応援してくれたり、守ってくれたりしたの。それぞれのアイドルの名前がそのまま隊の呼び名になっていて、私の親衛隊は“小泉今日子隊”。親衛隊も一応組織化されていて、隊長や副隊長がいるのだけれど、ハーちゃんはいちばん上の総長の彼女で、ヒメと呼ばれてた。総長は、コンサートや歌番組の公開放送、地方での営業的なイベント、親衛隊とのお茶会、とにかくいろいろなところへ来てくれて、必ずハーちゃんも一緒だったの。だから私と彼女は十代半ばからの付き合いで、今でも仲が良いんだよね。

高崎 親衛隊のことを小泉さんから初めて聞いた時は驚きました。アイドルとファンの関係が、今では考えられない距離感ですよね。

小泉 そうだね、あの時代だから成立していたことだと思う。でもいわゆる追っかけみたいなことではなくて、私たちアイドルの活動をサポートしてくれる人たち、という感覚だった。歌手デビューする前後、原宿で歌のレッスンを受けていたのだけれど、その頃、私はまだ神奈川県に住んでいて東京から家が遠かったのね。それを知る親衛隊の子たちが原宿の道に車を停めて待っていてくれて、「お送りします!」といって厚木にある自宅の近くまで送ってくれることもあった。

高崎 怖くなかったんですか?

小泉 怖くないよ。何かあったら勝てると思ってたもん(笑)。それに彼らにはきちんとしたルールがあって、変なことは絶対にしてこないの。車の中で、当時既に人気だった松田聖子さんの曲を聴きながら、「今日子もこういう曲、作ってもらいなよ」「そうだよねえ、私の曲ってなんか暗いよね」なんて話したりして、楽しかった。

高崎 あはははは!

小泉 事務所を訪ねてくることもあるんだよ。「今日子隊でーす! スケジュール拝見します!」って、ホワイトボードに書かれた予定表を見て歌番組とかの入り時間を確認してるの。すると、そこにいる社長が「君たち~、応援よろしくね」「はい!」みたいな。応援してくれるし、現場で私を守ってくれるから、事務所側も助かっていたんだよね。時々、社長が「おい、今日子。彼らとお茶会してやれ」って(笑)。

高崎 すごい世界ですよね(笑)。アイドルとファンによるお茶会という存在を初めて聞いた時も衝撃でした。

小泉 コンサートで全国を回る時は、移動する新幹線のホームまで護衛に来てくれた。例えば、新大阪駅から私が乗ると「こちら新大阪です。今日子、××時××分発に乗りました。名古屋に××時に着きます」「了解しました!」と、大阪の子から名古屋の子に連絡がいく。で、名古屋駅に着くと、ホームで現地の親衛隊が待っていてくれるの。駅まで追いかけてくる他のファンたちから、私の身を守ってくれていたんだよね。歌番組に出演する時には必ず観覧に来てくれて、私の歌に合わせてコールと言われる声援を送ってくれた。

高崎 「スマイルガール ウ~レッツゴ~ 今日子 L・O・V・E キョウコオオオッー!」って(笑)。

小泉 そうそう(笑)。新曲ごとにいつも面白い掛け声を考えてくれて、ステージで歌いながら思わず吹き出しそうになることもあった。コールのことは、高崎君も小説に書いているよね。

高崎 コールは当時の親衛隊の活動を伝える上で重要な事柄です。けれど残念なことに、ほとんど音源が残されていないんです。それだけでなく、親衛隊についての記録は非常に少ない。小泉さんも、そのことが残念でさみしい、と話していましたよね。それなら、僕が書いてみたいと思ったんです。

小泉 きちんとした形では何も残ってないんだよね。親衛隊のことを記した書籍も見たことがない。

高崎 当時は携帯電話もインターネットもなかったので、今のように簡単に記録を残せなかったんですよね。資料どころか、写真もほとんど残っていない。だから僕は、実際に親衛隊だった人や関係者に会い、直接話を聞いて小説を書き進めました。取材で聞きだしたのは、個人的な思い出や感情ではなく、当時の服装、頭に巻いていたハチマキの色、乗っていたバイクの車種などといった、事実だけです。それを骨格として、主人公の二人に十代の頃の自分の想いを入れ混ぜながら、肉付けして物語を作っていきました。

小泉 嘘は書けないけれど、小説としての面白さも必要。だからきっとすごく大変な作業だっただろうと思う。

高崎 時間はかかりましたね(笑)。原稿に行き詰まると、当時、小泉さんや他のアイドルがよくコンサートをしていた場所であり、親衛隊が集まっていた、NHKホール、渋谷公会堂、日本青年館という、原宿の街を囲むように建つその三ヶ所をまわってウロウロしていました。実際に歩いて同じ景色を見ることで、小説の主人公二人の気持ちに近づけるような気がしたんです。ここからあの木が見えるのか、この坂道はこれくらいの傾斜なんだな、とか。自分の中に、リアリティがほしかったんですよね。

小泉 小説とはいえ、地名も場所の名前も実際のものだし、架空の誰かではなく、私を実名で出しているから、いろいろなことがリアルに感じられた。

高崎 小泉今日子、とそのままの名で登場させるのはすごく勇気が要りました。物語とはいえ、勝手なことは書けませんから(笑)。

小泉 本当にあったことを、事実とは少し話を変えて書いてくれた部分もあるよね。主人公のひとり、高階良彦君のこともそう。名前や設定は実際とは違うけれど、彼は実在した子で、親衛隊として熱心に私を応援してくれていたから当時よく顔を合わせてた。でも小説と同じように、病気のために若くして亡くなってしまった。私は彼のお見舞いにもお葬式にも行けなかったことをずっと後悔していたの。けれど高崎君が、小説の中の小泉今日子に、彼の入院する病院へ会いに行かせてくれた。実際の私ができなかったことを、小説の中の私はしてあげられたんだよね。すごくうれしかった。彼もきっと喜んでくれていると思う。

あの頃の私にもあった普通の日常

高崎 高階のように、登場人物の設定は僕が考えたことも多いのですが、小泉さん自身のことに関しては基本的に事実に基づいて書きました。だから小説を書く上で、小泉さんが「原宿百景」に綴る文章が、僕にとってとても重要な資料となったんです。ある意味、参考文献のような感じ(笑)。「小泉さんはあのことを書いている、けれど当時のファンは知らなかったことなのだから小説に書いてはいけないんだ」「あの日のコンサートで元気がないように見えたのは、エッセイに綴られているこの出来事があったからかもしれないぞ」というように、自分の原稿と小泉さんの文章を照らし合わせながら書き進めました。

小泉 へー、そうだったんだ! 答え合わせをするようで面白いね。小説の中で、各章のところどころに当時の歌番組「ザ・ベストテン」のランキングを載せているでしょう。話が進むごとに、小泉今日子の曲の順位が上がっていく。親衛隊にとってそれは喜ばしいことなのだけれど、人気が高まれば高まるほど私との距離が広がってしまう。あのランキングを載せることで、そのさみしさのようなものがすごくよく表されていたと思う。言葉で説明をするよりも伝わってくるよね。

高崎 あのランキングは、調べて書くのがすごく楽しかったです。子どもの頃、好きなアイドルが唄うのを見るために、聴きたくもない演歌を聴いて待たなければいけない時間を思い出したりして(笑)。

小泉 あったね、そんなこと(笑)。私はあの頃、曲が売れるとともにどんどん人気が出てしまって、追いかけてくるファンたちから逃げなければならなくなった。それは私がエッセイに書いた、家がバレるたびに引っ越していた頃や原宿のピテカントロプス・エレクトスというクラブのようなところで、アイドルではなく普通の十代の子として遊んでいた時期と重なるの。だからさっきも言ったけれど、私と高崎君の本、両方を読むことで、当時の小泉今日子が立体的に見えてきて、一人の人間の表と裏を見るようなんだよね。

高崎 小泉今日子という一人の人に、二つの時間があるように感じますよね。

小泉 ステージで唄う私の向こうには、何千人というファンの子たちがいて、彼らには彼らの生活がある。同じように、ステージを降りると私にだって普通の日常があった。確かに私はアイドルとして、他の人とは違う日々を過ごしていたけれど、『黄色いマンション 黒い猫』には誰にでもあるような「私」の思い出を大切に綴ったんです。

高崎 生まれ育った場所も青春時代を過ごした環境も全く違うのに、小泉さんのエッセイを読むと不思議と共感できる部分が多いんですよね。ページをめくっていて、突然、自分の記憶が鮮明によみがえることもありました。子どもの頃に学校の教室でシバタさんという女の子を泣かせてしまったことを思い出して、ごめんね……と泣きそうになってしまったり。小泉さんの文章に押されて、頭の奥に眠っていた記憶と感情が不意にワッと湧き出てくることがあるんです。

小泉 前号で対談をした、本木雅弘君も同じようなことを言ってた。僕の十歳下の妻も泣きながら読んでいた、世代に関係なく誰にとっても自分のこととして読める本なのではないか、と。

高崎 アイドルであり、誰もが知る有名な人が書いた本なのに、皆が共感できる。不思議な本ですよね。

小泉 私にとっては、“原宿”というテーマがあるのはとても幸せなことで、それを軸にいろいろな書き方を試しながら自由に書くことができたの。結果的に読者にとっても、その柔軟な文体が読みやすかったのかもしれないね。きっともっと若い頃、十代や二十代ではこんな風には書けなかったと思う。二十年、三十年と時間を経たから、文章にすることができたんじゃないかな。

高崎 時間を置いたからこそ書けることってありますよね。

小泉 エッセイに昔の思い出を綴る時、過去にいる向こう側の私の姿を、現在にいるこちら側の私が見ながら書いているような感覚があるの。話の中に今の私が入ってしまわないように、距離感を保ちながら客観的な視点で書きたいと思っていて。特に「原宿百景」のエッセイは、時間軸も年齢もわざとぐちゃぐちゃにして書いたんだよね。十七歳の私になって書いてみたり、連載時の実年齢である四十代の私のままで書いてみたり。

高崎 十代の少女になって自分のことを綴る、四十代の小泉さん。その距離感が面白いですね。

今わかるファンの思いと彼らへの感謝

高崎 僕の小説『オートリバース』は、二〇二〇年にラジオドラマとして放送されたんです。その時、多くの十代の子たちが聴いてくれたことにとても驚きました。僕のような五十代の人間が書いたものが、まだちゃんとラジオを聴いたことがないような若い世代に届くということがすごくうれしかった。今回、文庫になった小泉さんのエッセイ集も、今の十代の子たちが読んだらきっと面白いと感じるでしょうね。

小泉 そうだといいね。私も最近、アイドル時代の私を知らない世代の子たちが、YouTubeとかで私が唄っている昔の映像を観てくれて、SNSを通じて感想を送ってくれることがすごくうれしい。そうしてファンの子と簡単に繋がれる時代になったんだよね。

高崎 八〇年代のアイドル全盛期では考えられないことですよね(笑)。

小泉 ほんと! 実は私も今、人生で初めてファンクラブなるものに入会して、オタク活動をしてるんですよ。

高崎 あ! BTSですね。

小泉 そうです(笑)。アイドルを追いかけることで、自分自身にフィードバックすることがたくさんあるの。あ、そうか! あの時、彼らはこういう気持ちだったのか! って、ファンの子たちが私に何を求めていたのかが、今更ながらわかるようになった。それを古参のファンの方に、「やっとわかったのか!」と言われてる(笑)。

高崎 BTSの影響力ってすごい(笑)。

小泉 二〇二二年で、私はデビュー四十周年なんです。だから全国ツアーや映像集の発売などいろいろなことを計画しているの。そのためにレコード会社に残っているプロモーションビデオやコンサートの記録を全部観せてもらったのだけれど、大阪のフェスティバルホールでのコンサートを収録したものを観たら、外で開場を待つファンの子たちにインタビューしている映像があったの。「キョンキョンのどこが好き?」「まあ、他のアイドルとはちゃうところやな」「それはどんなところ?」「自分の考え、持ってるからな」って、ヤンキーみたいな男の子が答えているのを観て、思わず泣きそうになっちゃった。

高崎 めちゃくちゃいい話ですね。

小泉 ね! 十代の自分がアイドルとして必死にがんばっている姿にも、なんだか泣けてきてしまって。こんな時代からやってたのかよ~って(笑)。

高崎 こんな時代って(笑)。

小泉 そうだよ! デビューした八〇年代初め頃なんて、まだアナログレコードで新曲を出していたんだから。

高崎 『オートリバース』の主人公二人は、小泉さんの曲をカセットテープで聴いていますしね。四十年を振り返ると、小泉さんは歌手として俳優として、本当にいろいろな時代を見ていらした方ですよね。

小泉 自分でもそう思います(笑)。

高崎 八〇年代はアイドルとして駆け抜けて、九〇年代前後からは川勝正幸さんと出会い、藤原ヒロシさんやスチャダラパーといったサブカル界の人たちとも交流を持つようになる。かと思うと、久世光彦さんや相米慎二さんといった、映画やドラマ、演劇界の方々、そして、『黄色いマンション 黒い猫』の装丁を手掛けられた和田誠さんや糸井重里さんなど、デザイン、美術、広告界の方たちとも親交が深い。

小泉 いろいろなジャンルの方と仕事をして、歌手もやって俳優もやって、舞台のプロデュースまでするなんて人、私くらいかもね(笑)。

高崎 そして、文章も書ける。

小泉 きっと、ある意味ノンポリだからできたんじゃないかな。アルバムのプロデュースにしても、平気で誰かに任せられるから、みんな私に新しいことをさせたり、私で遊ぶことを楽しんでくれていたんだと思う。そして何より、ファンの子たちがそういう私を面白がってついてきてくれた。二〇二二年は、そんな人たちへ御礼をするという気持ちで、四十周年という記念の一年を過ごしたいと思います。


 (こいずみ・きょうこ 歌手/俳優)
 (たかさき・たくま クリエイティブディレクター)

*本対談は雑誌「SWITCH」2022年1月号「原宿百景」との連動企画です。ぜひあわせてお楽しみください!

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