書評

2022年2月号掲載

『流』につらなる半自伝的エンターテインメント

東山彰良『怪物』

吉野仁

対象書籍名:『怪物』
対象著者:東山彰良
対象書籍ISBN:978-4-10-334653-1

 これは怪物と闘う話だ。題名を目にして、そういう物語だと考えたならば、あながち間違ってはいない。しかし、これだけでは、こぼれ落ちてしまうものがあまりにも多い。というのも、すでに最後まで読み終えた筆者自身、はやい段階でその予想は半分ほど裏切られたのだ。もちろん東山彰良の新作なのだから、単純な言葉で要約できない小説であろうことはあらかじめ分かっていた。作者自身、枠にはまった娯楽小説には飽き飽きして、つねにその向こう側へ飛びだそうとしている書き手だと思うからだ。
 まず作品の冒頭で、作者は〈この物語はわたしの夢である〉と断っている。さらに最初の章〈1 二叔父(におじ)さんは怪物を撃ったか〉の書き出しは、
 鹿康平(ルウ・カンピン)が怪物を撃ったのは一九六二年のことだった――『怪物』という小説を、わたしはそのように書きだした。
 となっている。鹿康平は、作家である〈わたし〉(本名・柏立仁(バイ・リーレン))の二叔父である王(ワン)康平をモデルにしている。そして〈わたし〉のペンネーム〈柏山康平〉の康平は、その二叔父から取られていた。三人の康平の物語なのだ。では作中で登場する『怪物』とはどのような小説なのか。
 一九五九年、毛沢東の時代、中華民国空軍第八大隊第三四中隊(通称黒蝙蝠(くろこうもり)中隊)の隊員だった二叔父さんは、B‐17に乗りこんで新竹(しんちく)基地を飛び立ち、大陸の西方を偵察飛行していた。ところが、中国のミグ17戦闘機に発見されたのち撃墜され、命は助かったものの、民兵に捕まった。そこから逃亡し、英領香港まで泳いで渡り、アメリカ領事館に保護されて台湾に帰り着いたという。これが六二年にかけて二叔父さんに起こったことで、『怪物』の鹿康平は大陸から逃げるときに民兵の首領、蘇大方(スウ・ダーファン)を撃つ。
〈わたし〉が書いた『怪物』は、のちに自殺した二叔父さん本人が語った話をもとにしている。〈わたし〉は、従兄の王誠毅(チェンイー)、すなわち二叔父さんの息子とともに、子ども時代に彼からその話を聞かされた。話が大げさでつじつまがあわなかったり、話のたびに細部が変わったりするところもあったのだろう。それを〈わたし〉が小説『怪物』に仕立てたのが十年まえで、出版時にはほとんど見向きもされなかったが、英語に翻訳され、海外のある文学賞の候補に選ばれたために注目を集める。
 あるとき藤巻琴里(ふじまき・ことり)という女性からの手紙が出版社経由で届く。彼女の祖父・藤巻徹治(てつじ)が、『怪物』に書かれた鹿康平は自分の知っている王康平に間違いないというのだ。その後、〈わたし〉は台北(タイペイ)へむかった。台北国際書展に参加し、自分の本が台湾で翻訳出版されるのにあわせ、会場で講演会とサイン会をすることになっていた。編集者とともに出版社の国際ライツ事業部の女性が同行した。
 やがて『怪物』で描かれた物語に新たな事実が持ちあがったり、運命の女に溺れていったりしたのち、〈わたし〉をめぐる世界の枠は壊れ、虚実のゆらぎのなかに取りこまれていく。最初に〈この物語はわたしの夢である〉と宣言したとおりだ。読者は、荘子(そうし)「胡蝶(こちょう)の夢」、ネルヴァル「夢はもうひとつの生である」、乱歩「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」といった有名な言葉をたちまち連想するだろう。愛と自由をもとめる男女がはからずも深みにはまって溺れ沈んでいくように、〈わたし〉はどちらが現実でどちらが虚構なのかといった迷宮世界へ足を踏み入れ自分を見失ってしまう。
 言葉にするとややこしくなるが、この『怪物』の作中作『怪物』を書いた〈わたし〉は、まぎれもなく作者自身を虚構化した人物だ。台湾生まれの東山彰良は、学生結婚をした両親が日本へ渡ったため、五歳になるまで台北で暮らす祖父母の大家族にあずけられ、九歳のときに家族で福岡県に移住した。そして二〇〇三年、三十代半ばで小説家としてデビューし、二〇一五年『流(りゅう)』で第一五三回直木賞を受賞した。翌年、『流』は台湾で翻訳出版され、プロモーションのために作者は台北に帰省している。
 すなわち『流』と同様に、この『怪物』には、中国、台湾、日本にまたがり大家族を抱く作者の自伝的要素がふんだんに溶け込んでいる。いうまでもなく三国の近現代史が濃厚かつ劇的に関わっていることも重要な点だ。本作はそんな一大『流』サーガの最新版なのだ。
『流』は、東山彰良の父をモデルにしていたが、おそらくいずれ祖父母の話をもとにした波瀾万丈の長編を描いてみせるだろう。単なる事実を追った伝記ではなく、新たな創作の手法を求めた結果が、この『怪物』における夢と現実の合間を彷徨(さまよ)う物語となったと筆者は捉えている。
 音楽や小説からの引用や言及はもちろんのこと、放浪や逃亡、性愛の喜びと苦しみなど、作者の持ち味といえる要素は、今回も小説のあちこちにちりばめられている。なにより〈わたし〉は、もはや若いとはいえない年齢ながら、どこまでも満たされない男である。それでも見失った真実を虚構のなかから必死でつむぎだそうともがき闘い、自らを葬ることで生きなおしていく。『怪物』は、そんな愛と再生のゆくえが胸に迫る虚構(フィクション)なのだ。


 (よしの・じん 文芸評論家)

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