書評
2022年2月号掲載
レニーは百年を生きた
マリアンヌ・クローニン『レニーとマーゴで100歳』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『レニーとマーゴで100歳』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:マリアンヌ・クローニン/村松潔訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590178-3
終末期患者を抱える大病院では、死は日常茶飯事の出来事だ。長期入院患者が、ある日亡くなる。ベッドはその日のうちに清掃され、長年にわたって家族のように会話を交わしてきた看護師も、翌日から何事もなかったかのように新しい患者に接している。プロフェッショナルとはそういうものなのだろう。しかし同部屋の他の患者には、自分が死んだときもこうなるのだ、という現実を突きつけられる出来事だ。まるでそんな患者など存在していなかったかのように毎日は滞りなく進んでいく。「死」とは一体なんなのか。当事者にとって、当事者を囲む人びとにとって。
メイ病棟(終末期患者の病棟)にいるレニーの担当看護師は、文中最初から最後まで「新人看護師」と呼ばれ続ける。「新人」は、彼女がそういう、いわば「死のプロフェッショナル」に馴染みきっていない、という符丁でもあるのだろう。その職に未熟であることは、その職の鎧を身に着けていないということだ。その「新人看護師」に付き添われ、病院付属の礼拝堂に行ったレニーは、「なぜわたしは死ぬことになっているの?」と神父に問う。レニーにはどうしても納得がいかないのだ。終末期にあることに慣れることができない。彼女が最期の日々を輝かせる場となるアートセラピールーム、ローズルームを企画設営したのは、「臨時雇い」だ。患者が患者の服を脱ぎ捨て、個人に戻れることを願いつつ、創意工夫しながら全力を注ぎ込む。これも「臨時」であればこそできた仕事だったかもしれない。
「死」と同じく、「ターミナル」という言葉が、全体を貫くキーワードの一つになっている。冒頭、スーツケースを曳きながら空港のターミナルを歩くレニーの描写がある。病院から出られない十七歳のレニー自身が、「ターミナル」という言葉で想起する空港の一場面である。このシーンが、本書の最後にもう一度出てくる。空港におけるターミナル、病の終末期という意味でのターミナル、それぞれの「ターミナル」が、「旅立ち」という解放的な、そして空間への開放的な、共通の意味合いを孕んでいた言葉だったことに胸を衝かれる瞬間だ。これもまた全体に張り巡らされた緻密な構成の一端だ。
ローズルームで十七歳のレニーと八十三歳のマーゴは、互いの一年一年を絵で表すことで、百年を視覚化しようと計画する。レニーの生涯ただ一度の異性とのキスのロマンのかけらもない体験の貧しさ。レニーの喜びの少ない短い生を補填するものとして、マーゴの彩り豊かな八十三年が提示されるのだろうか。そんなに単純なものか、とレニーの側に立って思うけれど、丁寧に開陳された人生のそのときどきは、なんとも味わい深い。
そしてマーゴはレニーの臨終の枕元で、レニーが送り得た一生をダイジェストのようにして語る。いわば即興でレニーの(架空の)一生の物語を誦(そらん)じたのだ。マーゴはこれと同じことを、生後数ヶ月で天に召された息子の枕元でもやっている。ケルトの血の濃いスコットランド人のマーゴが本能的にとった、異教の祈りにも似た魂送りの儀式、人生の物語化。そう思って読めば、この小説全体が物語であったことに気づかされる。
本当に「ターミナル」にある人が読めば、レニーの怒れる精神の、溌剌たる「元気」ぶりに違和感を覚えるだろう。レニーの病名については明らかにはされていないが、終末期にある人の体はギリギリのエネルギーで保たれているので、(過剰な熱量を必要とする)怒りより(静かな)悲しみに、反撥より受容の精神に、より親和性が高いから。また高齢の人が読めば、マーゴが人生の一年一年を鮮明かつ詳細に思い出す様子に作り物めいていると感じるかもしれない。年を取れば、二年前のことも二十年前のこともわからなくなりがちだから。この作品に、そのようなリアリティの欠如を感じることは否めない。そう、これは明らかに「健康な」「若い人」が書いたフィクション、「物語」である。けれどそれはリアリティだけでは手の届かない、その奥に眠る、人生の宝石のような核心部分を、覚醒させくっきりと顕す、フィクションはそのためのものなのだ。それが小説というものの持つ、本質であり醍醐味なのだと、感動の読後、しみじみと思った。そうなのだ、凄まじい速度と密度で、レニーは百年を生きたのだ。
(なしき・かほ 作家)