書評

2022年3月号掲載

川上未映子『春のこわいもの』刊行記念特集

読者を首肯させる力

筒井康隆

世界中が切望していた二年半ぶりの新作、ついに刊行!
こんなにも世界が変ってしまう前に、私たちが必死で夢みていたものは――。

対象書籍名:『春のこわいもの』
対象著者:川上未映子
対象書籍ISBN:978-4-10-325626-7

 春のこわいものは早期にあったコロナなのかもしれないな。ほんの少しの記述でもコロナ史的価値はある、そんな時期に書かれた六つの短篇のうち、男性の一人称は「ブルー・インク」一篇だけ、あとは二人称も加えてすべて女性が主人公。なのにすべての主人公の意識や行為のありようがなぜかすんなりと納得出来てしまうのだ。わしゃ女か。いやいやこれはやはり川上未映子の間口の広さと筆力なのであろう。包容力と言ってもよろしい。不可解な結末は前衛だし、リーダビリティはエンタメに目配せしている。
 最初の「青かける青」は掌篇である。こればかりは入院しているお嬢さんではなく、つい先達てまで入院していた我が身を思い返して、家族はおれに長く入院していてほしいんだろうなとか、このままここで死んでいくのもありかなあとか、切実な思考の共振があった。偶然とはいえ、いやはや参った。
 知性も容姿もごく一般的で、だからこそおれなんかとは遠い世界にいるトヨという「あなたの鼻がもう少し高ければ」の主人公がなんでこんなによく理解できるのか。心ではなく顔だという衝撃的なテーマも首肯出来る描写力。整形という現代の魔力の前で正反対の場に立つマリリンとの接近。二人は水商売斡旋業のモエシャンなる女に逢いに行く。そこでは「なんでブスのまま来てんの」と口を極めて罵倒され、下手に顔をいじくりまわしたマリリンに到っては声もかけて貰えない。ラストはカフェの女店員を介して自虐の極に突き放してしまうのである。
「花瓶」では病床の老女が「好きなことを言わせてほしい」と言って家政婦の性交の場面を想像することや自身の死や夫とではない相手との性交のことなど、ちょっと言い難いことばかりを語る。特にある特定の知人の性交の場面を繰り返し想像することなどは老いという共通点からの地続きであろうか、自身との類似にどきりとする。
「あなたは」という二人称で描かれる女の彷徨と罵倒とSNSと食欲が描かれる「淋しくなったら電話をかけて」は、小生が思うにこの作品集の中では最高の出来である。暗い結末とか明るい結末とかいったヤワな感想を突き抜けた、爽快感あふれるラストで、思わず笑い出してしまった。何よりもバランス感覚がよく、やっぱり小説はこうでなければと思わせてくれる。
 自分の書いた文章があとに残ることを病的に怯える女性がいて、その友人になる男性が本書中唯一の男の語り手「僕」である。「ブルー・インク」におけるこの「僕」がデッサン室でデザイン科の女の子への性犯罪を妄想する長丁場は圧巻だ。この年頃の男性が実際に何もすることができないことはわかっているものの、欲望の切迫性がなまなましいので迫力がある。急激に熱が冷めて嫌悪感でいっぱいになるのも性行為のあとに似ていて納得できるが、女性もそうなのだろうか。
 お稽古ごとを一通りやったもののなんの才能もなく、それでも女優に憧れて自分もなりたいと思う娘がどんなに多いことか。「娘について」はそんな金持ち娘に批判的でありながらも友人であり続ける女性の語りで、本書中いちばんの力作と言えよう。何かになりたいと思いながらなんの努力もしない男というのもいるが、これはいずれ結婚する可能性のある女性ほどには許容されない。役者志望の男、小説家志望の男などもそうであり、まあおれの場合努力はしたものの、傍目にはろくな男ではなかっただろうな。よくまあ光子さんが結婚してくれたものだと思うよ。
 主人公とその母親と語り手三様の造形がみごとである。わしにはとても書けんわ。


 (つつい・やすたか 作家)

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