書評

2022年3月号掲載

命をトリートする技能者

暖あやこ『幾度めかの命』

紫野京作

対象書籍名:『幾度めかの命』
対象著者:暖あやこ
対象書籍ISBN:978-4-10-350854-0

 なぜか「耳」なのである。
 耳が、生死を分けるきわめて重要な機能をもっている、らしい。
 そういえばこの小説に引用されるゴッホも、拳銃自殺する少し前に自分の耳を切り落とすといった奇行があった。ゴッホは耳に何らかの強いこだわりがあって死を選んだのだ。
 この小説の舞台は日本には違いないのだが、耳のなかに生死の境界があるような、そんな世界なのである。フィクションの中で人間が人間の生命をコントロールしようとすると、その行先は安楽死か、過度の人工授精といった、ネガティヴな方向にむいてしまうものだが、この小説は、そのどちらでもない。
 日本の人口減少をこれ以上看過するわけにはいかない――この目的意識から、社会全体が今ある余命を互いに融通しあうことができるよう、国家が命そのものを管理する体制づくりをした、というのがこの作品の基本的な着想になっている。
 主人公は通常は消防署に勤務する女性である。事故や火災があるたびに緊急出動する。保管士――これが彼女の職名だが、これは本来誇るべき国家資格である。なぜなら、例えば事故現場においてトリアージの必要が生じたとき、的確な判断を下して有為な命を守らねばならないが、そのための処置を任されているのが、この保管士だからである。
 人口の減少を食い止めるためなら、国籍法を血縁主義から出生地主義に変えて、海外からの流入人口を増やす以外に方法がないのは世界史が証明しているとおりである。それがどうしても嫌で、諸外国がためらってきた「命の国家管理」を逸早く実現するのだから、この設定が現代日本と地続きであることは明白だろう。著者のたくらんだ設定の背景にもまた、国政批判、あるいは国民の風潮への批判が潜んでいることが窺えて面白い。そういえば、前作の『さよなら、エンペラー』も、近未来SF的設定の中で、政治のダイナミズムが効果的に使われていた。他の若手作家には決して見られない資質であろう。
 この小説に幾度も出てくるとは言え、それに出会うたびに緊張してしまうのは「譲命」のシーンである。自分の余命が尽きる前に、少し余裕を残した段階で子や孫に命を譲るのだ。これは制度化していて、その現場で処置を行うのが保管士である主人公だ。処置の対象がたまたま自分に縁の深い人物であった場合はどうするのだろうと多くの読者が感じるに違いない。いや、それが自分の仇であろうとも、平常心ではいられまい。
 この「譲命」という制度があるために、家族関係が変わってゆく。あたかも遺産相続をめぐる骨肉の争いのようなものが、財産とは別の次元で発生し、その時々の家族の状況に応じて変化するのだ。
 離婚によって離れ離れになった親子ならどうなのか、身内で深刻な喧嘩が起こったらどうするのか。そうした社会学的な問いが、この制度によって投げかけられる。しかしそれは、現代日本の家族がそもそも抱えている問題が顕在化しただけと言えるかもしれない。
 それが主人公の「周辺事態」であるうちはまだ良かった。後半になって、両親との関係に思わぬ変化が起こり、彼女はジレンマの中でその都度決断を迫られる。保管士というプロフェッションに対する誇りもまた、揺らぎ始めるのだ。
 やむを得ず生まれたにせよ、この制度は社会史の中の怪物に相違ない。しかしその運営に携わる者たちは怪物であってはならないだろう。主人公は物語の最後まで怪物にならずに済んだのだろうか。
 それを見届けることが出来たのは、冒頭から彼女に質問を浴びせ続ける、一人の塾教師だった。彼の耳には「あるべきもの」がなかった。ゴッホは耳を切り落した少し後で自死したのだが、彼もまた生死の境を行きつ戻りつした経験があるのだろうか……。
 社会学的ifの設定された、とても珍しい作品だ。設定過多のSFと違って、情景描写は極めてリアルだし、そのぶん感情移入も容易である。ファンタジーかSFか、はたまた――読者が本書のジャンルをどう決めるか、私は秘かに注目している。


 (しや・きょうさく 文芸評論家)

最新の書評

ページの先頭へ