書評・エッセイ

2022年4月号掲載

自伝という名のウロボロスの世界

杉本博司『杉本博司自伝 影老日記』

青木淳

対象書籍名:『杉本博司自伝 影老日記』
対象著者:杉本博司
対象書籍ISBN:978-4-10-478104-1

 杉本博司さんは写真家として世に出た。まずは、ニューヨークの自然史博物館のジオラマを撮って、剥製の白熊をまるで生きているかのように写してみせた。アメリカの場末の映画館で、映画一本分、シャッターを開けっぱなしにして、光の粒子からなる矩形平面を、残像として印画紙に焼きつけた。目の前に広がる海に太古の海を幻視する「海景」シリーズもある。私が再生設計に携わり、その流れで館長も務めることになった京都市京セラ美術館でも、杉本さんにリニューアルオープン記念展をお願いした。その「杉本博司 瑠璃の浄土」展では、7色に分光する陽光の色だけを大画面に定着することが試みられた。
 とはいえ、杉本さんを写真家という狭い枠組に押し込めるのはどだい無理な話だ。2002年の直島の「護王神社」を皮切りに、建築家としての活動も始め、2009年には、写真美術館「IZU PHOTO MUSEUM」を完成させている。その頃だったか、杉本さんが「なぜ建築家が設計する美術館はこれほど使いにくいのか」と私に食ってかかってきたことがあった。たしか私の方も、「杉本さん設計の美術館も、さすが建築家、なかなか使いにくそう……」とお答えした記憶がある。氏と公開の場で対談をしたときのことである。
 文楽や能楽の舞台演出も行ない、「杉本文楽」を主宰している。日本の伝統芸能だけでなく、舞台芸術一般の演出や舞台美術も手掛けている。2019年にはパリのオペラ座で、バレエと能楽を邂逅させた。昔、ニューヨークで古美術商を営んでいた。そのとき培った審美眼をもって、今は仏教美術を蒐集している。
『苔のむすまで』、『現(うつつ)な像』、『アートの起源』といった著作もある。博覧強記、分野を跨いで、さまざまな事実・史実を高速度でつなぎつつ進む。章を読み終わるその瞬間に、読み手の頭のなかに一つの世界をくっきりと浮かび上がらせる。教科書的な生半可な知識ではない。どうやったらそんな資料に行き当たることができるのか。地べたを這って獲物を狩猟した経験がなければ得られない研ぎ澄まされた嗅覚がある。
 そんな杉本さんが今回は、世界や歴史のさまざまな事象ではなく、自分の来し方を対象にして、36編の小世界から成る、自伝という名の一つの世界を構築した。それがこの『影老日記』である。話が全体で円環を成している。いわば自分の尾を呑み込む大蛇ウロボロスの世界。始まりと終わりが一致している。言い換えれば、始まりも終わりもなく、あるのは曰く言い難い「あるかなきかの心地」ばかり。つまり「蜻蛉日記」で言うところの「かげろう」。それを「影老」と地口落ちせざるをえないのが、常に諧謔と頓智を考案している杉本さんではある。
 2014年、パリで開催された個展タイトルは、「今日世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない」。歴史は終わり、後は始原と模造がぐるぐると反芻するばかりの覚束なき世界。その地点に立って、写真を撮る、建築を設計する、舞台芸術に没頭する、本を著す、書を揮う、食を料る。なにも次々と職種を増やす欲望に駆られているわけではない。同一の観念が、別様の現れとなり、別領域と見えるもの同士が、なにかの拍子で符合しつながり、結局は同一の観念に回帰する。そのことに魅了されているのである。だから行なっていることはひとつのこと。ただ、その行ないをひとつの呼称では呼べないのである。
 杉本さんは「遺作」として、小田原に「江之浦測候所」をつくっている。冬至の日にだけ陽光が貫通する隧道(ずいどう)が原基として築かれる。そして土地いっぱいに、古今東西のさまざまな謂れの石の遺物が集められ、ちりばめられる。本書には、「現代文明が何らかの理由で滅んだあと、例えば五千年後、ここは遺跡となって美しい姿を晒す」とある。今は来歴が記され、相互に濃厚な関係の糸が張られ、人類の太古からの歴史を反芻している石たちが、そのとき、再び時間を失い浮遊しはじめるだろう。前後を失なった時の消失点。それは、澁澤龍彦『高丘親王航海記』が描きだした、本来的な意味での「アナクロニズム」の世界であり、「かげろう」であるだろう。思えば澁澤の同書も遺作だった。しかしなぜ小田原なのか? 答えは本書にある。


 (あおき・じゅん 建築家/京都市京セラ美術館館長)

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