書評
2022年4月号掲載
オルナ・ドーナト『母親になって後悔してる』刊行記念特集
勇気を出して語り出した母たち
母親や女性を苦しめ、口をつぐませてきたものとは――。
欧州で刊行後、深い共感と激しい批判を巻き起こした話題作。
対象書籍名:『母親になって後悔してる』
対象著者:オルナ・ドーナト/鹿田昌美訳
対象書籍ISBN:978-4-10-507271-1
出産して二日後だろうか。病室に現れた看護師さんに、乳首マッサージ用の馬油を院内の売店で早急に買ってくるように言われた。家族は仕事や体調不良でなかなかお見舞いに来られなかった。今なら誰かに頼むとか、家族が来るまでは馬油なしで乗り切るとか、いくらでも代案を思いつくのだが、その時は頭がぼうっとしていた。私は病室を出て、壁に身体をもたせ、ほとんど感覚のない下半身を引きずりながら、這うようにして下の階にある売店に向かった。足の間から悪露が流れ続けていた。その時のことを今も繰り返し思い出す。まるで貞子のように通路をズルズル歩く顔面蒼白の私を見て、入院患者たちはぎょっとした顔で振り返った。エレベーターが開くなり、私は床に崩れ落ちた。他に乗客がいなかったので、ほとんど寝そべって四角い天井を見上げながら、大変なことになっちゃった、と思った。身体は言うことをきかないし、これからは自己責任で全部一人で決めて自分で動かないと、赤ちゃんが死んじゃう。あの日から、私はいつも気がそぞろだし、頭が正常に働いていない気がする。産後あるあるなのかと思い続けもう五年。私は育児もいい加減な方だし、子どもと過ごすのが苦痛な方でもない。なのに、言いようのない緊張感が常にうっすらくすぶっている。この話をするのはこれが初めてだ。
本書は自身は子を持つことを望まないと公言するイスラエルの社会学者オルナ・ドーナトが、「母親になって後悔している」二十三人のユダヤ人女性へのインタビューをもとにまとめた論文である。読み終えた時、私が真っ先に感じたのは救いだ。ああ、私と同じようなことを感じている人がこんなにいる。そして勇気を振り絞って、その違和感を声にしようとしている。あのエレベーターの日から続いている恐怖が急に和らいで、視界が変わって見えた。
本書は刊行されるなり議論を巻き起こし、激しい批判も浴びた。おそらく日本でもこのタイトルを見ただけで「子どもがかわいそう!」「子どもが欲しくてもできない人がいるのに!」と激昂する人が大勢いると思う。女性が平均三人子どもを産むイスラエルではなくとも、母であることにしっくりきていない女性はいてはならない存在なのだ。社会を根底からくつがえしてしまうタブー中のタブーである。しかし、この事実こそが、社会が母親の愛情や無償のケアに頼りきっている証拠ではないか?
仮名を使ってインタビューに答えている女性たちが、子どもを愛する、頑張り屋の母親であることは興味深い。彼女たちは決して自分の後悔を知られてはなるまい、と常に子どもや家族を慮っている。その証言はこれまでどこでも見たり聞いたりしたことがないものばかりだ。
子どもが大好きなのに、一生続く母親という重責に押しつぶされそうになっている、「産まないと後悔するよ」という呪いを浴び続けたため自分という人間をまだよく知らないうちに産んでしまった、ずっと続く緊張感で心身が休まる暇がないし、子どもが大人になっても何も変わらない、これが死ぬまで続くと思うと辛い、勇気をもって打ち明けたら異常者扱いされた、子どもが生まれてから何をしていても罪悪感がつきまとう、期待されるスーパーウーマンにはなれない――。私はおおいに共感した。オルナという真摯な聞き手を前に、彼女たちがそれぞれの孤独な部屋からおそるおそる外に出て、自分の言葉を取り戻していく過程は感動的だ。
とりわけ私が、素晴らしいな、と思ったのが、「あなたを誰よりも愛しているけれど、母という存在に押し込められていることが私には辛い」とそれぞれの言葉で、子どもたちに自身を語ることを試みる女性たちだ。この社会で「母親になった後悔」がまったく語られないからこそ、自分は流されるままに子を産んでしまった。だからリスクを背負ってでも、次世代に共有しようとする。「絶対にあってはならない」はずの彼女たちの声は、この社会の構造の歪みを炙り出す。資本主義社会を邪魔しないために、振り返ることが許されず、歩き続けなければならない抑圧さえもつまびらかにする。私たちがそれぞれの物語を自分の言葉で語ることは、他の誰かを救うこと、ひいては人生のハンドルを握り直すことになるのだという、当たり前のことに気づかせてくれる。そして、勇気を出して語りだした人の声に耳を傾けることもまた、次世代のためによりよい世界を作るために今、必要なことなのだ。
母になったことをとても幸せに思っている人、またはこれから子どもを欲しいと思っている人、不安に思う人、子を持つ気が最初からない人。そのどれにも当てはまらない感情を持つ人。私はすべての女性に本書を手にとってもらいたいと思う。
(ゆずき・あさこ 作家)