書評
2022年5月号掲載
凄味と情感があふれる「町医者四代」の物語
帚木蓬生『花散る里の病棟』
対象書籍名:『花散る里の病棟』
対象著者:帚木蓬生
対象書籍ISBN:978-4-10-118832-4
思わず、読みながら声をあげてしまった。あまりに残酷で悲惨な状況に参ってしまったからだ。読むのが辛い。でも、読みたいし、日本人なら読まなくてはいけないと思った。帚木蓬生の新作『花散る里の病棟』所収「胎を堕ろす 二〇〇七年」である。
この読書体験、帚木蓬生の戦争・医療小説の白眉『蛍の航跡―軍医たちの黙示録―』と似ていると思った。姉妹編『蠅の帝国―軍医たちの黙示録―』は内地と満州を主な舞台にして東京大空襲、原爆などが報告されたが、『蛍の航跡』ではシベリアからラバウルやニューギニアなどを舞台に、生き地獄の体験者である軍医たちが様々な極限状況を物語っていた。もう嗚咽をこらえながら読むしかないほど悲惨でやるせなかった。
これは「胎を堕ろす」も同じ。戦前から戦後を生き抜いた元日赤看護婦の人生をたどる話で、舞台は、終戦すぐの九州の温泉保養所。そこで秘密裏に行われた外地からの女性引揚者たちへの対処である。具体的にいうなら戦場でレイプされ妊娠した女性たちへの子宮掻爬手術であり、早産の処置(嬰児殺し)。それに深く関わった元看護婦(八十一歳)の回想が生々しく語られるのだが、調子はどこまでも静か。しかし静かであるがゆえに場面は緊迫をおび、嬰児殺しの一部始終の感触が生々しく伝わり、思わず声をあげてしまうのだ。そして、そうせざるを得なかった看護婦たちの苦悩が、処置された女性たちの静かな表情と対比されて、戦争の酷たらしさが、平和な日常の底の底に貼りついていることを教えてくれる。
と紹介すると、『花散る里の病棟』が戦争小説のような印象を与えてしまうがそうではない。そもそも毎回のように俳句が最後のほうに出てきて、優しい情感を醸しだしているからである。「胎を堕ろす」だって、主人公の医師が作った俳句で締められて、女性たちの悲しみがゆったりと浄化されていく。
そう、本書の主人公は医師なのである。ただし一人ではなく四人。町医者四代の物語が十本の短篇で構成されている。まずは、内科医院のほかに介護老人保健施設を経営する三代目・野北伸二と夫を亡くしたお年寄りとの交流を描く(1)「彦山ガラガラ 二〇一〇年」から始まり、二代目・野北宏一が虫医者と言われた初代・野北保造の医師人生を語り((2)「父の石 一九三六年」)、四代目・野北健が外科医としてボストンの医療センターに留学し、医療保険が充実していないアメリカ社会の悲惨さを目撃する(3)「歩く死者 二〇一五年」と続く。このように時間を大きく前後させながら、1936年から2021年までの時代と病気を凝視していく。
たとえば、(5)「病歴 二〇〇三年」は、三代目伸二が講演の形をとりながら有名人の病気の原因を探る内容で、さながら安楽椅子探偵風で実に面白く、(6)「告知 二〇一九年」は、健の専門である肥満治療の外科手術と、健の恋人である理奈が取り組む、潰瘍性大腸炎などに有効な糞便移植に関する医療小説として新鮮だし、病気の話はやや薄いものの、伸二が問題児のMとの中学時代の運動会を回想する(9)「二人三脚 一九九二年」は、スポーツ小説的で躍動感豊か。最終章(10)「パンデミック 二〇一九―二一年」では、複数の視点を用意して家族模様を多角的に映し出す。
でも、やはり強烈な印象を残すのは、太平洋戦争を扱った(7)「胎を堕ろす」であり、(4)「兵站病院 一九四三―四五年」と(8)「復員 一九四七年」だろう。前者はルソン島の兵站病院で生き残った宏一の体験記であり、後者は宏一の命を救ってくれた加藤中尉の遺族に会いにいく話である。南方戦線の話は前記の『蛍の航跡』に詳しいので、「兵站病院」では、作者が影響をうけた大岡昇平ばりに事実だけを淡々と記して凄味をだしているが、「復員」では逆にエモーショナルに謳いあげる。どのように亡くなり、何を託されたのか。その一部始終がもう胸をふるわせるのだ。書き残された文章のひとつひとつが、手渡された者の心に刻み込まれるのである。
これは十作すべてに共通することだが、書き残された文章とはおもに俳句で、これがみないい。抒情の定着であり、イメージの象徴化であり、テーマの視覚化でもある。情景を目にやきつけ、意味を噛みしめ、心の中に静かにしまうことになる。ベテラン作家の、優しくものびやかな、深い境地がたまらない連作である。
(いけがみ・ふゆき 文芸評論家)