書評
2022年6月号掲載
瀬戸内寂聴生誕百年記念『瀬戸内寂聴全集』、『私解説 ペン一本で生きてきた』刊行記念特集
百寿でかなったこと
対象書籍名:『瀬戸内寂聴全集』(第二期全五巻)第二十一巻~第二十四巻、第二十五巻/『私解説 ペン一本で生きてきた』
対象著者:瀬戸内寂聴
対象書籍ISBN:978-4-10-646421-8/978-4-10-646422-5/978-4-10-646423-2/978-4-10-646424-9/978-4-10-646425-6/978-4-10-311228-0
二〇二二年五月十五日。満百歳の誕生日は、間違いなく訪れる。私たちは何年も前からそう信じ込み、心づもりを膨らませていた。ところが……。
「ほらごらんなさい、諸行無常よ」とばかりに潔く、「寂聴さん」はこの世を去ってしまわれた。数え年百歳は、却って永遠の百歳として、皆の記憶に刻まれた。それをいっそう確実なものとするように、「百寿記念」と銘打たれた『瀬戸内寂聴全集』第二期全五巻が完結した。
二十年前の第一期刊行分と合わせて全二十五巻。真赤な装幀の全集を抱きしめた時、「ああ、もう死んでもいいとため息をついています」と刊行に際した本人の挨拶文にはある。日付は命日と同月の二〇二一年十一月。何と見事な終わり方だろう。
瀬戸内作品の美点も、その終わり方にあるとかねて考えていた。ことに短篇。清々しい余韻を響かせるのが技巧の域を超えて巧いと、第二十三巻の短篇群を読み通して感服した。なかでも「藤壺」(単行本は二〇〇四年刊)については、あらためて息をのんだ。
この作品にまつわる筆者の記憶は前世紀末までさかのぼる。“瀬戸内源氏”とよばれる『源氏物語』の現代語訳、全十巻が完結した一九九八年の春、丸谷才一氏との対談に同席する機会があった。学問的解釈では不明とされる部分も、「小説の実作者が知識、体験を総動員して全人格的に読むと、どんどんわかってくるでしょう?」と、丸谷氏は瀬戸内訳の勢いをほめ、どちらの解釈もあり得るならば面白い方を選ぶ、それが小説の論理というものだと、お二人はうなずき合った。「雨夜の品定め」の直前、十七歳の光源氏は父、桐壺帝の妃で継母である藤壺とのはじめての逢瀬を果たしていた、その経緯を書いた一帖は「在った」と、両人は断言。鋭く深い読み、男女の事への飽くなき好奇心に怖れをなした。丸谷氏はこの五年後、その失われた帖の名ともされる『輝く日の宮』と題した長篇小説を完成させ、その結末に源氏と藤壺の幻の逢瀬を創作した掌篇を埋め込んだ。
これに刺激を受けた瀬戸内さんが半年も経たぬうちに発表したのが短篇「藤壺」で、追って古文でも書き(つまり“古代語訳”を自身で行い)、両方を併録した単行本を出版したのだった。何と凄い競作が実現していたのだろう。今、読み返すと、どちらも全プライドをかけた渾身の作である。瀬戸内版「藤壺」の帖には、なぜ、光源氏が父の妃を誘惑するという禁忌を犯そうと思い、実現し得たのか。納得できる心理描写と平安貴族の複雑な慣習が、原稿用紙わずか三十枚のうちにさりげなく、伝え尽くされている。瀬戸内の現代語訳十巻の中に置いてもまるで違和感は生じない。ただ、ほかの帖と違うのは、瀬戸内が創作した和歌「恋ひわびて恨む涙にこの春も/命むなしく過ぎ逝きにけり」に、五行分けした現代語訳が付いていない点だけである。命懸けで恋を取り持った藤壺の侍女、王命婦の低い声――「いいえ、夢でした。すべては逝く春の夜のはかない夢でございました」という最後の一文を読み終えると、たちまち読む者は千年も昔の、物語の彼方へさらわれる。
第二十一巻に収録された『月の輪草子』(二〇一二年)も、王朝文学の読みを極めた実作者にしか書けない作品に違いない。こちらは紫式部に妬心を燃やしながら、齢九十となった清少納言による一人語り。世にも稀なる高貴な皇后、中宮定子に二十代半ばで仕え、中宮と一心に言葉で遊んだ日々のはなやぎ。そこからしか『枕草子』は生まれなかった、しかし定子が早々と亡くなったその後は……。関わりのあった男たち、和泉式部や赤染衛門……名を残した王朝の女性作家への、清少納言になりきった作者からの忌憚のない評言、さらには出家したのちの、長い野ざらしのような日々への寂寥たる思い。虚空に放り出されるような無造作な一人語りから、今につながる普遍的な生老病死の実相がうかびあがる。
それにしても、亡くなるその月まで書き続けた作家がみた晩年の景色とは、いかなる色合いの、どのようなものだったのだろう。九十八歳で亡くなった宇野千代の晩年をしきりに気にしていた様子を思い出しもするけれど、瀬戸内寂聴という作家の場合は、『源氏』を訳し終え、知識も技術も最大限に蓄えた七十代前半の能力が、出力こそ弱まりはすれ、第二十五巻の最後に収められた自伝的な連作掌篇「あこがれ」、その最後の一作「雨雲」(「新潮」二〇二一年十一月号掲載)まで、しっかりと保たれたように思う。
第二十三巻の『風景』(二〇一一年)の七つの短篇、『求愛』(二〇一六年)の三十もの掌篇も、創作した年齢と内容の若々しさがまるで合致しない。短篇「わかれ」(二〇一四年)に出て来る男女の会話など、語り手は九十代と明記され、あくまでプラトニックであるものの、これが恋愛でないとどうして言えよう。ときおり訪れて、「おれも食いつめたらここで居候きめこんで先生の介護人になって、水売りになろうかな」などと口にする、四十も年下の報道カメラマン。二人で記憶をなくすほど飲み明かした翌朝、語り手が目覚めると、現在につながる危機に陥っていたウクライナへ、男は置手紙を残して発っていた。
「未練がましくまたスマホを握りしめてから、思い直して打つのをやめた。/男の方から別れを持ち出されたのは、長い私の生涯で翔太ひとりだったと告げたかったのだ」。ここでも閉じ方は鮮やか。私小説の匂いがたちのぼる。
近著を集めた第二十五巻の『死に支度』(二〇一四年)頃まで歳を経ると、連載なら一回、一回、そこが終わりとなっても構わぬ覚悟も伝わる。烈しくもやさしい、遺言めいた終わり方も増えている。それほど、実際にはさまざまな身体の不調、病との闘いが絶えなくなり、明日をも知れぬという思いの中にあったことが察せられる。
長篇小説としては最後となった『いのち』(二〇一七年)では、もう、物語という外側の作為は消え、先に逝った知友についての述懐が続く。平成に入った頃から、女性作家が時代の前面に次々と並び立ってきたのは周知の通りだが、文学の本流においてその気運を導いたのが、河野多惠子、大庭みな子、そして瀬戸内寂聴だったろう。この三人から筆者は長年、じつに多くを学ばせてもらったが、大庭と河野が墓場まで持ち去った話が、ここではより長く生きた側の記憶に基づいて、生々しく開示されている。文芸誌に連載されているあいだは、いささか読むのが辛かった。それは「伝記小説」として読むにはあまりに日が浅すぎ、距離が取れなかった。
が、高橋源一郎氏はこの最終巻の解説で述べている。
「いや、実は、寂聴さんが描くのは、寂聴さんにとってもっとも大切なふたりの女性作家の「生」そのものなのである」
「誰よりもなお生きのびて、世に残す仕事があるのだ。作家という生きものには」
そう、この全集は、作家の「生」はこのように受け継がれていくという見本なのである。裏打ちするように、解説者の人選にも怠りはない。長篇小説を集めた第二十一巻は川上弘美、百三十五人に上る懇意の作家、著名人の人物描写が連なる『奇縁まんだら』四作からなる第二十二巻は、平野啓一郎、第二十三巻の短篇集は田中慎弥、歌舞伎やオペラの脚本、句集、追悼文を集めた第二十四巻には伊藤比呂美の各氏を指名し、はるか後に生まれたそれぞれの才能が、この先人の仕事をわが身に引き受け、評している。本全集の装幀者である横尾忠則氏は終生の友人であり、氏の「赤のシリーズ」が五巻の口絵に用いられ、この世ともあの世とも知れぬ作品世界への入口となっている。
『瀬戸内寂聴全集』第二期の完結に合わせて、第一期二十巻の各巻に付された作者自身による全収録作品についてのエッセイ的な解説の文章も、新たに『私解説 ペン一本で生きてきた』の一冊にまとまった。約二十年前に書かれた自作への批評は、総じて甘くない。とりわけ、四十代に入った頃に書かれた代表作『かの子撩乱』(一九六五年)が、この作家の後半生を決定した作品だったと納得した。
「かの子の小説は、一平、新田、恒松の奉仕と共同作業の上に成りたったものが多いというのが私の説であり、今もそう信じている」とあるのは、自身の仕事も、小田仁二郎、作中の「凉太」、井上光晴の文学への情熱と共にあったという思いと重なっているだろう。「書き終っても、どうしてもかの子の説く仏教がわからなかった。そこで疑問として私の中に残されたものが核になり、歳月を経ても消えず、むしろその後増大して、ついに私を出家に導いたとも言えるのではないだろうか」とも述べている。一九七三年の得度後も、出家した理由を長く自分に問い続けていた作者はついに、「自分の書く作品で答えて貰おうではないか」と発想するに至り、その時、浮かんだ三人の出家者――西行を『白道』に、良寛を『手毬』、一遍を『花に問え』に、七十歳頃書いている。結局、得られた答えは「出家の動機などは解らないということが解った」とあるが。しかし、第二期第二十一巻に収められた『秘花』を八十代半ばで完成させた時、能を大成させたのちに佐渡に流された世阿弥、先に触れた『月の輪草子』の清少納言の仏への信心は、いっそう近くにあったのではないだろうか。
第一期の最終巻、第二十巻の「私解説」には、「八十まで生きていなければ、この全集を見ることは出来なかったという感慨と共に、七十まで生きていなければ、「源氏物語」の訳業は日の目を見なかった」と書かれている。そのように考えてみるなら、九十まで生きていなければ、河野多惠子と「のらくろ」と呼び合っていたという文化勲章を受けることも、東日本大震災後、痛む身体で被災地へ慰霊の行脚に向かうことも、原発反対のデモに参加することもなかった。そして、数えの百まで生きなければ、第二期の全集の多くの文章はここに形を成してはいなかった。
たしかにこの世は諸行無常だが、作家は無から有を生み、文章を「本」という永遠の形にして人々の胸に残す、特権を持つ。誰より瀬戸内寂聴は、それを信じて誇りとしていたことを、『いのち』最後の一文が如実に伝える。
「七十年、小説一筋に生き通したわがいのちを、今更ながら、つくづくいとしいと思う。あの世から生れ変っても、私はまた小説家でありたい。それも女の」
(おざき・まりこ 批評家/早稲田大学教授)