書評

2022年6月号掲載

人類を感染症から守る「頭脳」にして「心臓部」

黒瀬悦成『世界最強の研究大学 ジョンズ・ホプキンス』

川田晴一

対象書籍名:『世界最強の研究大学 ジョンズ・ホプキンス』
対象著者:黒瀬悦成
対象書籍ISBN:978-4-10-354631-3

 闇に沈んだ世界地図。その上に大小さまざまな真紅のドット(光点)が散っている。筆から絵の具を飛ばした抽象画のようにも見えるが、これはアメリカのジョンズ・ホプキンス大学が新型コロナウイルスの感染者を地図上に表示した追跡サイト「COVID-19 ダッシュボード」だ。それぞれの光点の向こうに感染者の人生がある。
 追跡サイトは新型コロナの感染者、死者、回復した人の数を国・地域ごとに表示する。著者によると、地図は終日、半自動的に、ほぼリアルタイムで更新されるという。加えて、世界各地でどのような種類のワクチンを何人が何回接種しているかもデータとして日々蓄積され、数字がリアルタイムで公開されている。
 こうして複合的に集積されたデータは他の追随を許さないが、誰でもアクセス可能だ。それゆえアメリカでは、政府機関が感染被害の深刻度に合わせて地域にどれだけの医療物資や機器、医師などを送り込むかという計画を策定するために頼ったり、今後のウイルス感染についての予測モデルを作成する基礎資料として使用。また、世界各国の保健当局が外国からの入国規制を実施するにあたり、追跡サイトの数字を元に諸外国の大まかな感染状況を把握し、規制実施の是非をめぐる判断材料として利用していると著者は報告する。
 システムの裏側には人間がいる。著者はファクトとともにストーリーを興味深く紹介してくれている。
 日本で初めてコロナ感染が確認された2020年1月、アメリカ東部の都市ボルティモアにあるジョンズ・ホプキンス大学の片隅で、「COVID-19 ダッシュボード」は生まれた。きっかけは、システム科学工学センターの准教授と留学生がカフェテリアで交わした雑談。ふたりはすぐに、追跡サイトの原型を作り上げる。すると、立ち上げから数日で一日当たりのアクセス数は2億回を突破。翌月、イタリアを中心とする欧州諸国で感染者数が増加し、何が起きているのか知ろうとした人が殺到してサイトがクラッシュすると、大学はすぐさま違う学部(応用物理学部)が所管する基幹システムを使う許可を出し、感染が広がる中でサイトの自動化を進め、精度を高めていった。WHOが新型コロナを「パンデミック」であると公式に認定した2020年3月頃には、少なくとも米国に関してはデータ収集とサイトへの入力の完全自動化を果たしたというから、そのスピードに驚く。そのまま読み進めていくと、追跡システムを立ち上げたシステム科学工学センターの准教授は、ふだん公衆衛生大学院(世界ランキングのトップ)で活動しているが、専門は土木工学で、正式には土木工学部に所属していると知り、二度驚く。
「そこがホプキンスのホプキンスたるゆえんなのです。どの学部や部門に所属しているかよりも、個人としてどのような研究活動に従事しているかが最も重要視されるのです」と説明する副学長自身が、化学工学の研究を専門とし化学工学部に所属しながらも、実際に日々取り組んでいるのはがん研究だというのが面白い。専門家を育成しながら、専門分野の横断を奨励する。追跡サイトは偶然ではなく、土壌による必然の産物だったというわけだ。
 こうして追跡サイトの裏側にいる人たちにスポットライトを当てながら名門大学の背骨を探り当ててみせた著者は、そこにとどまらない。コロナ感染で瀕死の状態に陥ったトランプ大統領の命をつなぎとめた同大医師と大学病院の存在に光を当てる一方で、トランプ大統領が助長させたともいえる「コロナ・フェイク」と闘う女性研究者(元五輪メダリスト!)を通じて中国やロシアによる偽情報工作にまで筆を伸ばす(「米国を非難する『架空の生物学者』の正体」はぜひお読みください)。
 射程の長い書きっぷりで見事な組織解剖をしてみせながら、やはり著者の興味は人にあるのだろう。それは大学病院の紹介の仕方にも感じられる。
《「良い病院」を判断する基準の一つは、地元の評判とも言われる。その点、ボルティモアの市民は病院に対して「町の誇り」と絶大な信頼を寄せている。筆者が病院を訪れた後にたまたま乗車したタクシーの男性運転手は、事故で頭の骨を折り重体に陥ったが病院で足や腰の骨の一部を頭に移植するなどの外科手術を複数回にわたって受け、立派に社会復帰したと明かし、「あの病院に入ったら何も心配はいらないよ」と笑った》
 最後に、余談めくが、一篇の雑誌記事を紹介しておきたい。東南アジア一帯に汎イスラム国家の建設を目指すイスラム系テロ組織ジェマア・イスラミア元最高幹部が組織のすべてを著者に明かした「ある大物テロリストの告白」(「フォーサイト」2005年4月号)。著者の力量を思い知るだろう。


 (かわだ・せいいち ジャーナリスト)

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