書評

2022年6月号掲載

フェア新刊 著者エッセイ

創作に目覚めよ

島田雅彦『小説作法XYZ 作家になるための秘伝』

島田雅彦

対象書籍名:『小説作法XYZ 作家になるための秘伝』
対象著者:島田雅彦
対象書籍ISBN:978-4-10-603882-2

 戦争によって廃墟になったのは都市ばかりではない。同じように人々の心も焼き払われ、敗戦後は誰もが空っぽな心で焼跡に立ち尽くした。以来、私たちの先祖は「空っぽな心を何で満たすか?」を巡って、様々な試みをして来たのだった。空っぽな心をカネや権力で満たそうとした者は闇市でのし上がり、占領軍に取り入り、戦前の軍部や政商と同様、人々を騙し、利権を漁った。そんな禿鷹はどの国にも一定数生息する。空っぽな心をエロスで満たそうとするのは健康の証である。権威失墜後、拠り所となる思想もシステムも無効になるので、人々は一瞬、本能に目覚める。その結果現れる文化流行、それがエロ・グロ・ナンセンスである。それは大衆文化の揺籃となるが、空っぽな心を詩や哲学で埋め合わせようとした人も少なからずいた。それが人文学者であり、小説家であり、詩人であった。小学生の時に敗戦を迎えた世代の古井由吉も、ただひたすらにコトバに奉仕することを選んだのだった。
 ふと気づくと、私も四十年もの長きにわたり、物書き稼業を続けていた。古井さんほどではないにせよ、コトバに尽くす思いがなければ、とっくに筆を折っていた。コトバを生業とする先人たちが積み上げて来た文学的叡智に私も何らかの上乗せをしたいとも思っていた。アリストテレスの『詩学』を出発点とする創作技法の伝統は時代ごとに更新がなされて来たが、基本的な部分は先祖からの踏襲である。
 ドラマツルギーの基本としての「起承転結」は、驚き、快感、感動、理解、説得、共感などのさまざまな感情を効果的に作り出してゆく手法である。ほんの三十秒で終わる小話でも、起承転結を構成した方が聞き手への伝達度が高い。この基本構造は物語の単位に限定されたものではなく、一段落、あるいは段落を構成する文章のひとつひとつにも同じ構造が見られる。時代精神や世界観と呼ばれる展望もまた波乱万丈の物語であり、対話や闘争から予期せぬ展開が生じる起承転結を伴っている。
 日本の歴史にも日本人の心性にも物語的元型は深く刻まれている。日本人は歴史上、外圧に屈した経験が少なくとも五回あるといわれる。白村江の戦い、元寇、南蛮人の渡来とキリスト教の伝来、明治維新、アジア・太平洋戦争の敗戦とアメリカによる間接統治である。一連の外圧は日本の統治システムを根本から変えるきっかけになったが、逆に外圧がなければ、何も変わらず、停滞し、腐敗する。それこそが日本の元型である。私たちは、サイコパスにマインドコントロールされたかのように「元型」のイメージに呪われた状態に陥っている。サイコパスに操られている人は自分が騙されているとは思いもせず、なかなか覚醒できないのだが、新たな物語、フィクションを立ち上げることによって、その呪縛から解放されなければならない。本書はそのための理論を提案する。
 政治や経済は現実をごまかすためにファンタジーに逃げ、全く説得力のない理屈と数字で有権者や消費者を騙しているが、文学は本来、政治プロパガンダや商品広告の対極にある。物語は本来、現実から目をそらすためにあるわけではなく、むしろ、過酷で、理不尽な現実のたとえとして、書かれるべきものだ。
 AI時代にあっても、未だ神話と真正面から向き合っているのが文学である。文学の原点は神話であり、神話が夢からの派生物なら、文学者は常に夢に回帰する。つまり、おのが無意識の開拓を果敢に実行する者のことを文学者と呼ぶのである。無意識の深層で動いている発語前の言語はまだ明確な意味を持っておらず、曖昧ゆえの多様性を持っており、文法にも縛られていない。私たちの本来いるべき場所が夢であるならば、一刻も早くこの不愉快な現実から目覚め、もっとましな現実に飛躍すべきなのである。
 自意識との付き合いを専らの活動とするナルシシズムから離れて、作家は、他者の意識や行為を自分の意識に映し出す鏡のような存在を目指す。自意識の彼岸にあるもの、それこそが「私」である。私は世界であり、他者であり、記憶であり、時間であり、思考の結果であり、次の瞬間にはどうなっているかわからない量子のようなもの。仮想現実の世界ではあらゆることが起こり得る。現在、過去、未来が同じ空間に併存していたり、死者が蘇ったりもする。理論上、量子はいかなる可能世界も作り出すことができる。本書は量子的原則に基づいた創作を目指す。
 過去から受け継いだ理論に自身の創作の経験を溶かし込み、出来上がった合金が『小説作法XYZ』である。十三年前に上梓した『小説作法ABC』は入門編だが、こちらはプロフェッショナル仕様で、「私」の捉え方、形式の踏襲と破壊、無意識から言語を立ち上げる手法、空間の拡張、パラレルワールドの探索、小説における時間軸の設定とタイムトラベルの手法、死、交換、愛、宗教といったテーマ設定まで、創作手法の新機軸のみならず、人文知性の拡張を目指した内容になっている。本書は文芸創作の「五輪書」である。


 (しまだ・まさひこ 小説家)

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