書評

2022年6月号掲載

フェア新刊 書評

「未熟さ」と「成熟」のあいだで思案する

周東美材『「未熟さ」の系譜 宝塚からジャニーズまで』

輪島裕介

対象書籍名:『「未熟さ」の系譜 宝塚からジャニーズまで』
対象著者:周東美材
対象書籍ISBN:978-4-10-603879-2

 プロデューサー・秋元康自身が述べたとされる「K-POPはプロ野球、AKBは高校野球」という比喩は、現在では一種の紋切型になっている。プロの高度な技術を堪能するのではなく、技量において未完成な少年少女が、苦難に立ち向かい奮闘し、時には失敗しながら成長してゆく過程を、手に汗握って見守り、応援する、というあり方が日本のアイドル文化の特徴だというわけだ。こうした認識は日本国内に留まらないようで、実際、数年前に中国のアイドル文化における日本の影響について研究したい、という中国人留学生から、日本の影響下にあるアイドル類型として「育成系」という括りがあることを教えられた。
 本書『「未熟さ」の系譜』は、現代の「アイドル」に至る「未熟さ」への偏愛のあり方が、どのような歴史的条件のもとで成立し、産業化され、メディアを通じて拡散し、意味づけられたのか、を扱う。その射程は広く、1920年代の童謡、宝塚少女歌劇から、1960年代の渡辺プロダクション、ジャニーズ、グループ・サウンズを経て、1970年代以降の「アイドル」のあり方を決定したテレビ番組、「スター誕生!」に至る。単に類似の事例を年代記的に並べるだけではなく、それが日本の近代(化)とどのような関係を結んでいるのかに深く分け入る。新中間層の形成と、「女、子ども」の空間としての「家庭」。そうしたイメージを喚起しまた体現するその時々の新興メディア(雑誌、レコード、舞台、なによりテレビ)と産業。そして、「未熟さ」を体現する「日本」に対する、優越した鑑(かがみ)としての「西洋」とりわけ「アメリカ」。個々の章での、目配りの利いた資料渉猟に基づく明晰な論述は、学術的な精密さと一般的な読みやすさを高い次元で両立させている。その上での終章での理論的な総括のスケールの大きさと分析の切れ味は抜群だ。
 本書の歴史社会学としての精度の高さは、前著『童謡の近代』を引き継ぐものだが、グループ・サウンズを論じる章では、著者が独自に行なった元ザ・タイガースの瞳みのるのインタヴューが大きく参照されているのが興味深い。十分な資料的裏付けを伴った当事者の証言は、論述の説得力を大いに高めている。ザ・タイガース解散後、高校教師に転じた瞳は、近代日本の音楽教育史にも大きな関心を持っており、同志的な信頼関係がうかがわれる。この二人の本格的対談を読んでみたい、と思った。
 さて、同業者による書評のお約束として、いくつかの疑問点を提示しておこう。まずは、日本における「未熟さ」愛好が、近代に特有の現象なのか、それとも、それ以前から潜在してきた傾向が、近代化の過程で変化したものなのか、ということ。本書の卓抜な表現を借りれば、「子ども」は「異文化受容の緩衝装置の役割を担ってきた」という。西洋文化輸入の実験と教育の草刈り場としての「子ども」というわけだ。この指摘には膝を打ったが、一方で、娘義太夫や女剣劇など、本書で強調する(想像上の「西洋」を模範とした)「家族」像から逸脱する、ある種土着的な「未熟さ」への愛好の系譜も存在してきたように思える。少なくとも美空ひばり、こまどり姉妹、藤圭子あたりまではそうした系譜を描けるだろう。
 もうひとつは、本書の射程は「1920年代から1960年代まで」という一連の時代なのか、それとも「1920年代と1960年代」という大きな社会変化を伴う2つの時代なのか、ということだ。比喩的に言えば、「未熟さの系譜」をなだらかな平野または丘としてイメージするのか、2つの山の隆起に挟まれた地形と考えるのか、となるだろうか。もちろんこれはポピュラー音楽という一領域に留まる議論ではなく、また連続と断絶の間の振幅自体が興味深いところであり、今後のさらなる議論が楽しみだ。
 私自身の素朴な読後感としては、まず、自分は「未熟さ」への愛着をほとんど持たない無粋者であることを改めて自覚した。それでも、近代日本の「未熟さ」の鑑として想像的に設定された「西洋」の規範的な(本書でも指摘される軍事的男性性に加え、人種主義や帝国主義と共犯関係にある)「成熟」の側につくことは断固拒否したいと思った。本書の明晰な記述によって、「未熟さ」がほとんど「必然的」に思えてしまうため、その桎梏(しっこく)からは抜け出せないのか、と嘆息してしまった。「どうすりゃいいのさ思案橋」という、「未熟さ」からは程遠い昔の歌の文句をふと思い出したりした。
 一方で本書には、「未熟さ」を相対化し、別の視点から読み替えるヒントも記されている。たとえば、戦前の少女歌劇の「男装の麗人」、水の江瀧子の人工的な「男らしさ」が、ジャニーズの兄貴分である「タフガイ」石原裕次郎へと引き継がれた、とする指摘は、「未熟さ」の系譜が、「家庭」の性的規範を超えて越境し逸脱してゆく可能性を示しているだろう。ジェンダーの人工性、上演性という観点からも興味深い。
 多様な事例と、一貫した理論と、さらなる発展可能性を兼ね備えた、ポピュラー文化史の重要な成果といえる。


 (わじま・ゆうすけ 音楽学者)

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