書評

2022年7月号掲載

切れ目なく流れるもの

クリストファー・イシャウッド『キャスリーンとフランク 父と母の話』

黒川創

対象書籍名:『キャスリーンとフランク 父と母の話』
対象著者:クリストファー・イシャウッド/横山貞子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-507281-0

 亡き両親が残した日記と手紙を手がかりに、作家クリストファー・イシャウッドが、彼らの実像を回復しようとする試みである。序盤の舞台は、一九世紀終盤、ヴィクトリア朝末期の英国イングランド。
 母キャスリーンは、新興ブルジョワ(ワイン醸造家)の一人娘として一八六八年に生まれ、容姿と健康にも恵まれ、すくすくと育つ。娘時代から老年まで、彼女は日記をつけ続ける。
 父フランクは、没落気味の地主階級の次男坊。気の長い落ち着きと、ひたむきな心を併せ持ち、音楽を好んだ。二〇代なかば過ぎに一つ年上のキャスリーンと出会ったとき、彼は陸軍中尉だった。
 相思相愛となるものの、キャスリーンの父親は野心家で、二人の結婚に強硬に反対する。フランクには、これといった財産が期待できなかったからだろう。だが、フランクは粘りに粘って、ボーア戦争で出征した南アフリカの戦地からもキャスリーンに手紙を出しつづける。やっと二人が結婚を遂げたとき、時代は二〇世紀に入って、両人とも三〇代なかばに達していた。
 一九〇四年、キャスリーンとフランクのあいだに、長男クリストファーが誕生。本書『キャスリーンとフランク』の作者である。さらにキャスリーンは、四〇歳を超えてから、次男リチャードを産んでいる。
 クリストファーが一〇歳のとき、父フランクは、第一次世界大戦の激戦地、ベルギーのイーペルで消息を絶った。母キャスリーンは、彼の行方を懸命に追う。やがて、英国陸軍省から、イシャウッド大佐は一九一五年五月の戦闘で「戦死した」という見解がもたらされる――。
 士官フランクの「戦死」は、家族にとって、家庭人としての彼にまつわる思い出が、すべて「向こう側」――つまり、「国家」に回収されてしまうという経験でもあった。やさしい父親フランクの面影は、「亡き英雄」の偶像へと置き換えられる。学校での息子クリストファーも、「亡き英雄の遺児」という「栄誉」ある立場とみなされた。最初のうち、少年はそれを鼻にかけたが、まもなく、これは、深い喪失感に変わっていく。なのに、なぜ、母キャスリーンは、戦没軍人の「聖なる寡婦」を演じることを受け入れてしまうのか?
 クリストファーにとって、同性愛者としての自身の暮らしの私的な領域は、「国家」という公的領域と鋭く対立するものとなる。平和主義という私的信条は、戦争という「国家」間の公的行動と相容れない。やがて彼は米国に渡り、英国籍からも離脱する。英国に残る母キャスリーンは、そうした息子の行動を称賛しなかった。だが、彼の作品は愛読しつづけ、一九六〇年、九一歳で没する。
 さらに時を経て、クリストファーは、弟リチャードが管理していた母キャスリーンの長年の日記、父フランクが戦地などから妻に宛てて書いた手紙類に目を通す。そこには「英雄」ではない生身の父、「聖なる寡婦」とは無縁な娘時代の母がいた。戦地のフランクは、砲撃への恐怖心をまぎらわせるため、塹壕のなかで編み物を続けるような青年だった。
 いま(一九七〇年代初頭)、これを書く老作家クリストファー・イシャウッドは、若き日々の父や母が、現在の自分のなかまで流れ込んでいるのを感じている。それぞれの人生は、こうして、切れ目なく続いていく。この長大な物語は、最後に、それを確かめ、始まりの場所へと立ち戻る。
 訳者は、一九三一年生まれの横山貞子。イサク・ディネセン、フラナリー・オコナーなどの翻訳で知られてきた人である。彼女の夫、哲学者・鶴見俊輔(一九二二─二〇一五)は、生前、本書の原著Kathleen and Frankを繰り返し愛読していた。その死去をまたいで、およそ一〇年の歳月を費やし、この大冊が訳された。


 (くろかわ・そう 作家)

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