書評

2022年8月号掲載

ロスト・ジェネレーションとしてのサリンジャー

J・D・サリンジャー『彼女の思い出/逆さまの森』(新潮モダン・クラシックス)

川本三郎

対象書籍名:『彼女の思い出/逆さまの森』(新潮モダン・クラシックス)
対象著者:J・D・サリンジャー/金原瑞人訳
対象書籍ISBN:978-4-10-591008-2

 これまで知っているサリンジャーとはまったく違う。もう一人のサリンジャーが現われたような新鮮な驚きがある。
 一九四〇年代に「エスクワイア」や「コスモポリタン」誌などに発表されながら、単行本に収録されなかった九編の中短編から成る。
 サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』の印象があまりに強いために、つい主人公のホールデン少年と同じような戦後に登場した世代と思ってしまうが、実はサリンジャーは第二次世界大戦に兵士として従軍した。戦争体験のある“戦中派”である。
 ヘミングウェイが第一次世界大戦を経験したロスト・ジェネレーションであるとすれば、サリンジャーは第二次世界大戦を経験したもうひとりのロスト・ジェネレーションといっていい。いずれも若き日に戦争を経験し、苛酷な戦場を見、そして理想の崩壊、失意を味わった。
 サリンジャーのロスト・ジェネレーションぶりは冒頭の「彼女の思い出」によくあらわれている。
「おれ」は、アメリカの裕福な家庭の子。一九三六年、学業の失敗を挽回するために父親の命で語学の勉強のためヨーロッパ各地を遊学する。ドイツ語を学ぶためウィーンに滞在した時、「彼女」、リーアというユダヤ人の美しい少女に会う。ドイツ語を学び始めたばかりの「おれ」と拙い英語を話すリーアが、夫々(それぞれ)、たどたどしい言葉を交しながら親しくなってゆく。
 そのさまは実にういういしく、少年と少女の幼ない恋の物語になっている。
 しかし、一九三六年のウィーンといえばヒトラーの統治の直前。甘い恋の結末が用意される筈もない。「おれ」はリーアと別れ、アメリカに帰るが、ユダヤ人の彼女の行手にはどんな悲劇が待ち受けたのか。
 戦後、「おれ」がウィーンを再訪するところはリーアのその後を詳しく書き込んでいないだけにかえって胸迫るものがある。ロスト・ジェネレーションならではの作品。
 軍隊ものと呼びたい作品もある。『ライ麦畑でつかまえて』の作者としては意外。「おれの軍曹」では、「おれ」が軍隊時代に世話になった、叩き上げらしい軍曹のことを親しく思い出す。入隊したばかりの日、「おれ」は心細くなって兵舎のベッドでひとり泣いた。
 その「おれ」を思いがけない優しさで慰めてくれた軍曹がいた。武骨で醜男で女性にはもてない。その軍曹が、兵隊になったばかりで泣いている「おれ」に優しくしてくれた。軍曹はその後、一九四一年、真珠湾攻撃の時、仲間を助けて自分は死んでいった。「おれ」は、いまも軍曹のことが忘れられない。
 サリンジャーに、こんな戦中派としての深い思いがあったとは。サリンジャーの戦争体験を改めて知りたくなる。
「すぐに覚えます」と「新兵に関する個人的な覚書」も軍隊もの。どちらも、軍隊における新兵に対するしごきの厳しさを描いている。サリンジャーの兵隊時代の体験が反映されているのかもしれない。いずれも『ライ麦畑』の作者が、こんな小説を書いていたのか、という意外な面白さがある。どちらの小説も、オー・ヘンリーを思わせるような巧みな落ちがあるのも鮮やか。
 九編中では、もっとも長い「逆さまの森」は、裕福で知的な女性が主人公になっている。
 亡命ドイツ貴族の娘。子供の頃、学校で好きな男の子に会った。貧しい家の子。大人になって彼に再会した。知る人ぞ知る詩人になっていた。
 二人は結婚して幸せな暮しを送っていた。そこにある日、自分の詩を読んで欲しいという詩人の読者の若い女性が現われ……。
 この女性は実は結婚していた。カポーティ『ティファニーで朝食を』の、ミスのように見えながら実はミセスだったホリーを思い出させる。カポーティはひょっとしたら、『ティファニー』を書くにあたって、サリンジャーのこの作品にヒントを得たのかもしれない。


 (かわもと・さぶろう 評論家/翻訳家)

最新の書評

ページの先頭へ