書評
2022年8月号掲載
バラバラな世界とバラ色の夢
六月に刊行された『夏』をもって完結したアリ・スミスの「四季四部作」。その不思議な面白さを訳者の木原善彦さんに解説していただきました。
対象書籍名:『秋』『冬』『春』『夏』(「四季四部作」、いずれも新潮クレスト・ブックス)
対象著者:アリ・スミス/木原善彦訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590164-6/978-4-10-590175-2/978-4-10-590180-6/978-4-10-590181-3
スコットランドの小説家、アリ・スミスが二〇一六年から二〇二〇年にかけて次々に発表した四季四部作が順調に邦訳・刊行され、ついに六月末の『夏』で完結した。すでに訳者あとがきに記したように、このシリーズは作者が先に四冊の刊行スケジュール(およそ一年三か月ごと)を決め、同時代に起きていることを随時取り入れながら執筆するという形で企画され、その通りに実行されたのだが、いくつもの偶然によって、イギリスのEU離脱国民投票から新型コロナウイルス感染症の世界的流行へとつながる激動の時代を映すことになった。英米の書評でも、「時代の空気を見事に切り取っている」と非常に高く評価されている。
しかしアリ・スミス作品の魅力を一言で言うのはとても難しい。普段、小説を読み慣れている人でもそのスタイルには戸惑うかもしれない。私は『秋』の訳者あとがきでスミスの小説について「読むと元気が出る」「心が軽くなる」という一種の効能に触れたが、これはあまり説明になっていない。軽妙洒脱な言葉遊びは魅力の一つだが、もっと大きな部分での面白さは説明しづらい。読者(原著でも訳書でも)の感想の中には、「話や時間が行ったり来たりするので分かりにくい」といったものもある。要するに彼女の小説のとらえにくさは、絵画技法になぞらえるなら“コラージュ”風になっている点にある。
ではここで、なぜスミスは同時代の世界を描くのに単線的で分かりやすい(いわゆる“小説”らしい)語りではなく、あえてコラージュを用いるのか、と考えてみよう。
たとえば遠い将来、新型コロナ感染症の世界的流行をリアルタイムで知らない人に対して、二〇二〇年春に私たちがこの日本で置かれていた状況を伝えようとするとき、皆さんならどうするだろうか? 当時の感染者数・死者数のグラフを提示する? 観光客や買い物客の数を示すグラフ? 新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の議事録を抜粋する? そんなふうに視点が一貫していれば分かりやすいし、危機的な状況もそれなりに伝わるだろう。しかしこの方向性では私たちの生活実感とは大きくかけ離れた情報になるのではないか。私たちが生きる空間は実際にははるかにもっと雑多なはずだ。
ではやや方針を変えて、当時の新聞記事やニュース、ツイートや写真を集め、編集して見せるという方略はどうだろう。その際に、マスクや消毒薬が品切れしたドラッグストアの様子、「人流」「オーバーシュート」などの新語や意味不明な術語の氾濫する記事、病院で防護服が足りないからと大阪市が市民から集めた大量の雨合羽の写真、突然あちこちに出現したアマビエの絵、都市の活動が停滞したことで急に透明度が増したという川や運河の写真などがあれば、特にライブ感のある当時の様子を伝えることができるかもしれない。
スミスの四部作に見られるコラージュは、この後者の“多様性”志向的な方略を反映したものだ。しかも彼女の小説の場合には、冗長な説明はできるだけ省きつつ、他方では、コラージュされた各要素をよく見ると互いの連関が見いだせるよう絶妙に計算されている。ジグソーパズル的なピースの一つ一つを眺めるだけでも興味深いが、ピース同士がぴったりはまったときには独特な喜びがある。
SNSに氾濫する恐ろしい言葉の寄せ集めや、初読では誰が見ているものか分かりにくい夢の描写(物語が進むにつれて夢の主は徐々に分かる)、誰が語っているのか分からない独り言や(その語り手は実は“大地”そのものであったり、監視社会の“ビッグ・ブラザー”的存在であったりする)、私たちが日常的に遭遇する郵便局や銀行の窓口での馬鹿馬鹿しいほどに官僚的な応対や、いかにも六〇年代を経験したらしい左翼活動家の言葉と、逆にいかにも現在の新自由主義にどっぷり浸ったビジネス人との噛み合わない会話や、イギリスの入国者退去センター(日本の“入管”施設である入国管理センターに相当する)における管理官と被収容者との会話や、大昔からの伝統と思われる行事で少女が生け贄に捧げられる場面を観衆がiPhoneで中継し、予定外の展開が起きてネットがざわつくという時代攪乱的で創作的な伝説や、小説の中に自由に織り込まれる架空の、あるいは実在の映画や小説や、さまざまな女性芸術家や著名人の伝記から切り取られた印象的な挿話……作品にはこうした多様な要素が盛り込まれている。
これはある意味、アリ・スミスが読者に向けて故意に仕掛けた策略なのかもしれない。というのも、私たちを囲む現実は同時代を生きながら俯瞰的に理解するのがますます困難になっているからだ。私たちはそこでいったん立ち止まり、いろいろな角度からの経験や物語を持ち寄ることで初めて現在の世界をいくらか理解することが可能になる。「要するにこういうことだ」と物事を単純化して断定的に語る者たちは往々にして私たちを特定の物語、方向へと導こうとしているのであって、アリ・スミスの語りはいわばその対極に位置している。
いみじくも朝日新聞五月二十五日付朝刊の文芸時評で鴻巣友季子さんが指摘するように、英米では最近、いろいろな小説の感想を記す際に“リレータブル(relatable)”という形容が用いられることが増えている。この言葉の原義は「関係を作ることが可能」ということで、そこから派生した「親近感が持てる」「自分事だと感じられる」という意味での使用が増えたのだが、他方でこの語の氾濫は、自分に近い存在への無批判な信頼を象徴するものでもある。私たちはこのギスギスした世界でひたすら摩擦を避け、インターネットの検索エンジンが耳心地のいいページのみを見せるといういわゆる“フィルターバブル”的な温室に閉じこもることで、世界のさらなる分断に加担している。
そんな状況の中、スミスの小説はいわば「関係を作る」とはどういうことかを問い直すものだ。私たちが本あるいは世界を読むときに大事なのは、単にそこに登場する人々を自分との社会的距離で測って遠ざけたり引き寄せたりするのではなく、分断された世界、バラバラに見える挿話同士を関係させたり、あるいは世界との関係を作るとはどういうことなのかを自らに問い直すことだ。
彼女が四部作に続いて今年発表した新作『姉妹編(コンパニオン・ピース)』でも、その探究は続いている。主人公は何十年も交流のなかった大学時代の知り合い(性格も友人関係もまったく異なり、仲がよかったわけでもない人物)から突然連絡をもらい、わけの分からない展開からその娘たちまで家に押しかけてきて、逆に自分の家から出て行かざるをえない羽目になる。しかし小説の語りは「こんにちは」で始まり、「こんにちは」で閉じられる。読者に向かって始まりの「こんにちは」を発するのは不気味なことに冥府の番犬ケルベロスだが、締めくくりで主人公が優しく「こんにちは」と挨拶を交わす相手は、主人公の父親が犬の散歩を通じて知り合っただけの若い女性だ。作品の中で常に異質な者同士を出会わせるスミスの小説の展開は唐突なようだが、いつも読者に向かって快活に「こんにちは」と呼びかけている。すべての関係はそこから始まるから。
(きはら・よしひこ 翻訳家/大阪大学大学院教授)