書評
2022年8月号掲載
応報感情と真正面から向き合うミステリ
八重野統摩『ナイフを胸に抱きしめて』
対象書籍名:『ナイフを胸に抱きしめて』
対象著者:八重野統摩
対象書籍ISBN:978-4-10-354691-7
おや、こういうものも書けるのか、この作者は。
八重野統摩『ナイフを胸に抱きしめて』のプロローグを読んで、ちょっと意外な思いがした。二〇一二年のデビュー以来、主にライトノベルレーベルで活躍してきた八重野統摩は、ミステリの要素を孕んだ青春小説の書き手というイメージが強かった。その印象を決定づけたのが著者にとって初の単行本である『ペンギンは空を見上げる』(東京創元社)だ。これは清新なボーイミーツガール小説で、ちょっとしたサプライズが仕掛けられていたことも相まって、著者の名がミステリファンの間に広く浸透する切っ掛けを作った。それだけに『ナイフを胸に抱きしめて』が放つ重苦しい雰囲気に少し驚いたのである。
一言でいうと、本書は応報感情について書かれた小説だ。冒頭では柳川和奈と莉緒という姉妹の境遇が描かれる。彼女たちの父は十年前、家族を捨てて西井千賀子という女性の元へと去っていった。父親が去った後、母親は女手ひとつで姉妹を育て上げ、和奈は無事に大学を卒業し小学校の教師になることが出来た。ところが夜となく昼となく働いたためか、身体が強くなかった母は三年前に心筋梗塞で亡くなってしまう。直接の要因が過労によるものなのかは分からない。しかし姉妹にとって母を追い詰めたのは、父を奪った西井千賀子なのだ。
西井千賀子が許せない。そう思いながらも月日は経ち、ようやく姉妹が毎日穏やかに生きることが出来るようになってきた時、和奈は勤務先の学校でひとりの女性に出会う。それは忌むべき相手、西井千賀子だった。あろうことか千賀子は和奈が受け持つクラスの子供の保護者だったのだ。高校生だった和奈と、小学生だった莉緒から父親を奪い、母を死に追いやる元凶となった西井千賀子が、母親となって何食わぬ顔で生きている。苦しい過去を忘れたいと思っていた和奈の胸に、再び西井千賀子に対する強い憎しみの感情が渦巻き始めた。
他者への憎悪が具体的な形となって現れるのは第一章「身代わり」で、ここで読者は喉元に刃を突き付けられたような気持ちで終始、頁を捲ることになるだろう。実は姉妹を不幸に追いやった西井千賀子も、決して順風満帆な生活を送っていたわけではないことが第一章の序盤で書かれている。怨嗟の念を描く物語でありながらも、決して単純な善悪の構図に落とし込むことなくフェアに描こうとする作者の姿勢が垣間見える。だからこそ、第一章で描かれる出来事の残酷さがいっそう際立つのである。この容赦のなさは、やはりこれまで著者が書いてきた青春小説には無かったものだ。
基本的には人間心理の綾を軸にしたサスペンスで読ませる小説だが、それ以外にもミステリの要素が織り込まれている。その一つが第二章以降で登場する高峰と工藤という刑事コンビの存在だ。物語は時おり、先輩刑事である高峰の視点を挟み込むため、捜査小説のような趣きを味わいながら読者は作中で起こっていることを眺めることになる。
本書で最も感心した部分は、応報感情という扱いが極めて難しい題材を、実に冷静な筆致でバランスよく描いていることだ。怨嗟や復讐心を娯楽小説、それもミステリ小説のプロットに当てはめて描くとなると、とかく読み手の感情を安易に煽りやすい構図に陥りがちな面もある。だが本書はミステリの仕掛けを忍ばせつつも、いたずらに読者を煽るような形では描いていない。その工夫の一つが、和奈と同じ学校に勤務する村山恭平という教師の視点だ。和奈とは単なる同僚以上の関係にある人物なのだが、実は本書のテーマである応報感情を深く考えさせる上での重要な役割を担っている。彼の目を借りることで、読者は突き放された場所から怨讐との向き合い方について思いを巡らせることが出来るのだ。
もう一つは、ラストの場面だ。ここでは、ある小道具とモチーフの重ね方が絶妙な形で描かれている。誰かのことをどうしても許せない。では、その感情とどのように付き合えば良いのか。この難しい問いについて、作者は象徴的な光景を描くことで読む者の心に刻み付けようとする。重苦しいが、どこまでも真摯な思いを受け止めながら最後の数行を読んだ。
(わかばやし・ふみ 書評家)