書評

2022年8月号掲載

この景色は一生忘れない

燃え殻『すべて忘れてしまうから』

堀井美香

対象書籍名:『すべて忘れてしまうから』(新潮文庫)
対象著者:燃え殻
対象書籍ISBN:978-4-10-100352-8

 燃え殻さんに初めて会ったのはラジオの収録だった。この本、『すべて忘れてしまうから』の単行本刊行を記念しての特別番組で、彼がリスナーの悩みや忘れられない出来事に答えていくというもの。私は燃え殻さんのアシスタントとして出演をとのことだった。
 私たちは収録の二、三日前にツイッターで挨拶をした。「打ち合わせ、全然出来てないのですが、収録よろしくお願いいたします。」「僕もよくわからないまま行きますが、お願いします。」みたいなやりとりだったと思う。
 収録の間、彼は自分の記憶を手繰り寄せるようにして、リスナーのメールに丁寧に優しく答え続けた。昔、酷いいじめにあっていたこととか、悲惨なパワハラを受けていたこととか、傷跡のような自分の時間をさらりと話しながら、全てから逃げてください、と笑って言った。
 彼が発する言葉は、どこかにたどり着こうとするものではなかったが、その答えを聞いていると、本は静かにめくられ、彼の作品ひとつひとつが浮かび上がってくるようだった。彼の記憶と共に、自分の過去も呼び起こされそうになったが、そこに身をうずめようとはせず、振り払った。記憶を無理にアップデートしてきた私には、逃げてきた何かに、もう一度向き合うことは難しいから。周波数低めの声で、無気力な雰囲気さえ漂わせてはいたけれど、むしろこうやって淡々と、しこりとも思えるようなある日の話ができるなんて、きっとこの人は私より強い人なのだろうなと、マイク越しに彼のことを見ながらぼんやりと考えていた。
 いつだったか、私が土曜ワイド劇場の江戸川乱歩美女シリーズがどれだけ素晴らしいかを一方的に語った時、自分も昔見たことがあるとおっしゃって、放課後学校から帰ってきてどんな風にテレビの前に座って江戸川乱歩のドラマを見たか、その不気味さに小さい自分がいかに震えたかを、こと細かに話してくれた。そしてこの本に出てくる、彼の祖父や祖母のこと、家族との海水浴のこと、母親と見た団地の灯りのことなんかを語るのと同じように、屈託無く話しながら、楽しそうに笑っていた。
 不確かな幻想のようではあるけれど、この本で、私たちが知らない、彼の内なる世界を覗けるのは嬉しい。その中でも彼の語る少年時代の話が好きだ。
 いたいけな燃え殻少年を想像するとき、正直、今の燃え殻さんより愛おしい。きっと臆病で泣き虫でか弱い少年だったのかもしれない。でも、いつも彼の周りには心地よい人々がちゃんといて、彼の過去にはしっかりと幸せな思い出がある。だから彼は今、一瞬の景色を緩やかに切り取ることができているのだろうと思ったりもする。

 竹中直人さんと燃え殻さんと三人で集った日がある。
 土砂降りの夜で、店の窓には雨の中に反射する首都高速の赤と緑の光跡が、綺麗に映しだされていた。それはとても楽しい時間で、竹中さんはいろんな話をしてくれた。
 燃え殻さんが羨ましくて泣いてしまうというつげ義春「無能の人」の中にある「この広い宇宙に三人だけみたい」というセリフが竹中さんとってどんなに惹かれる言葉なのか。燃え殻さんが愛する映画「ヌードの夜」の監督である石井隆という人間が竹中さんにとってどんなに大切な存在なのか。そして私たちが感傷的になって少し黙ると、ブルース・リーのモノマネをしてくれたりもした。竹中さんの向かいに座って、燃え殻さんはずっと嬉しそうだった。
 何時間かの幸せな時間をすごして、私たちは竹中さんの帰りを見送った。五階の踊り場の窓から二人で顔を出して下を覗き込み、雨の中、車に乗りこむ竹中さんに向かって叫んだけれど、雨の音に消されて竹中さんは気づかなかった。
 彼は憧れの人の背中を見下ろしながら「この景色は一生忘れない」と声を落とした。
 その低く柔らかい声と言葉とともに、暗い地面、わずかな波立ちと光のなかで、シャッターがゆっくりと切られる。そしてその映像は、ゆらりと浮かび上がるリフレクションのように、自分の脳の中に染み付いていく。雨の中の実像と水たまりの反射面が合わさり、本当にこの世界に二人だけという感覚になっていき、息が止まりそうになった。
 前にもこんなことがあった。確かに私はその人の言葉に救われた。誰だったかもわからないし、本当にあったのかもわからない。そうしてその記憶は私の前から消えていった。それはあまりにも薄暗く蒼然としていて、今ではもう、思い出そうとする気力すらない。
 過去も、たくさんの人たちのことも、すべて忘れてしまうから、一緒に時間を過ごした人達の言葉を一つくらいは覚えておきたいと彼は話す。でもきっと、彼という存在が、彼そのものが、その言葉を、誰かと二人だけの世界を、作ってきたのだと思う。
 今はこの瞬間から消えてなくなる。薄まり、溶暗の中に置き去りにされる。そこからそっと記憶を連れ出してくれるのが、燃え殻さんであり、この作品なのだと思う。


 (ほりい・みか フリーアナウンサー)

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