書評
2022年9月号掲載
「悪党」たちへのレクイエム
岡本隆司『悪党たちの中華帝国』(新潮選書)
対象書籍名:『悪党たちの中華帝国』(新潮選書)
対象著者:岡本隆司
対象書籍ISBN:978-4-10-603888-4
二千年以上の歴史を積み重ねた中華帝国に巣くっていた悪党どもを挙げるとすればきりがない。悪事のスケールも桁違いだ。十万を超える兵士を生き埋めにした悪党もいれば、帝国の歳入の数年分に相当する富を汚職で貯め込んだ悪党もいる。『悪党特集を世に出すからには、さぞかし凄まじい猟奇話やおぞましい怪人が披露されるのだろう』と野卑な妄想を膨らませて、本書の「悪党」名簿に目を通した。
意外にも日本では一角(ひとかど)の人物と評されてきた面々が名を連ねている。もうこの時点ですでに著者に一本取られている。なるほど、文中で悪党に「 」が付いているのはそういうことか。
本書には、正真正銘の悪党も登場するが、経世済民の志に燃え、高い資質を兼ね備えた人物も「悪党」として登場する。本書は、今日の我々の通念に照らせば決して悪事を働いたとはみなされないような人物たちが、なぜ中国の歴史書では「悪党」の烙印を押されたのかを解説し、彼らの行状について再審をおこなっている。無念さを抱えてあの世を彷徨(さまよ)っている「悪党」たちの魂を鎮める書ともいえよう。
著者がスポットライトをあてている「悪党」の多くは、学者、もっと詳しくいえば、儒教の四書五経に精通し、科挙(官僚の登用試験)に合格した文化・政治エリートだった。学者と官僚という二つの顔を併せ持った彼らは、儒教の解釈あるいは帝国運営の実務に深く関わり、学術や政治に大きな痕跡を残したが、同時代あるいは後代の学者から「悪党」のレッテルを貼られ、死後もそうした歴史的評価に嘖(さいな)まれ続けた。
本書は、世界帝国の風格を帯びるようになったと著者が認定する唐代から清末にいたる中華帝国の歴史をひもときつつ、それぞれの時代を象徴する「悪党」たちの波乱に満ちた生涯を描いている。一千年以上の歴史を網羅した三百ページをこえる大著だが、著者の卓越した文章力のおかげで、読者は船で川下りをしながら両岸に連なる見事な景観を眺めるような気分を味わえる。
その気分を不用意に害さないためにも、ここでその景観を細かく紹介することは避けたい。ただ、一足先に川下りをした者の感想を述べれば、一千年以上にわたって「悪党」が改革、すなわち政治改革や思想改革と結びつけられてきたという著者の議論は、現代の中国を考えるうえでも示唆に富むと感じた。
中華帝国における政治改革の旗手といえば、まず思い浮かぶのは宋代の王安石だろう。日本の高校の世界史でも言及されるほどのビッグネームである。この王安石も本書では「悪党」とされていることに少なからぬ読者が驚かされるに違いない。
ところが、中華帝国の歴史書においては、大がかりな改革を推進した人物たちに「悪」のレッテルが貼られてきたのである。このような業績評価には、儒教とその担い手たちの事情が深くかかわっていた。
そもそも戦乱を克服するために上下関係に重きを置く秩序の構築と維持の必要性を説く儒教の世界においては、既存の秩序こそが至上の「善」であり、その秩序に手を加えようとする動きはアレルギー反応を招きやすい。また、秩序の改革は、往々にして帝国の実務と精神世界を担う文化・政治エリートの地位と既得権益にまで延焼した。自分たちこそが社会的・道徳的秩序の主柱であると自負するエリートたちにとってそれは許されない暴挙であり、擾乱(じょうらん)を招いた改革者たちを「悪党」として歴史書に記録するのが通例となった。王安石もこのようにして「悪党」にされてしまったのである。
本書を読んでいた際に思い浮かんだのが、一九七〇年代末に導入された「改革・開放」政策の旗振り役となった胡耀邦(こ・ようほう)と趙紫陽(ちょう・しよう)だった。この二人は相次いで中国共産党の総書記となり、党の権限や党幹部の特権に制限を加えようと奮闘し、民衆から支持・敬慕されたが、既得権益にしがみつく党内の長老たちから嫌悪され、どちらも「悪党」として失脚に追い込まれた。彼らの政治改革の試みは、今なお中華人民共和国の歴史においてタブー視されている。
要するに、現代中国においても改革を志向する者は「悪党」扱いされてきたのであり、その点で中華帝国と大きな差はないのだ。
かつて福沢諭吉は、中華帝国を指して「とかく改革の下手なる国」と評した。本書を読めば、なぜ「改革の下手なる国」なのかがよくわかる。今日の中国では、革命をつうじて埋葬されたはずの儒教の亡骸(なきがら)が掘り起こされ、帝国時代の皇帝のごとく一人の人間に権力と権威が集中する仕組みも蘇りつつある。そのようなタイミングで本書が世に出された意義は大きい。
(あなみ・ゆうすけ 東北大学教授)