書評

2022年9月号掲載

ポール・オースター幻のデビュー作の面白さ

ポール・ベンジャミン『スクイズ・プレー』

吉野仁

対象書籍名:『スクイズ・プレー』(新潮文庫)
対象著者:ポール・ベンジャミン/田口俊樹訳
対象書籍ISBN:978-4-10-245119-9

 あまりの面白さに興奮しながら、この『スクイズ・プレー』のページをめくっていった。
 これはポール・オースターにとって、いわば幻のデビュー作である。ポール・ベンジャミン名義で1982年に発表した探偵小説。オースターのミドルネームがベンジャミンで、それをペンネームにした唯一の小説なのだ。
 もし、あなたがオースターの愛読者ならば、問答無用でお薦めしたい。とくに初期の代表作である〈ニューヨーク三部作〉、なかでもその一作目『ガラスの街』を気に入っているのであれば、それだけで興味深いはずだ。
 いや、オースターをこれまで読んだことがない、よく知らなかったという方でも、ハメットやチャンドラーらを源流とする私立探偵小説が好みであれば、充分に『スクイズ・プレー』は読む価値があるだろう。いわゆるハードボイルドの典型的なスタイルで書かれた、完璧な私立探偵小説なのだ。1985年にアメリカ私立探偵作家クラブ主催のシェイマス賞の候補となった作品で、フランスのミステリ叢書〈セリ・ノワール〉にも収録されている。すなわち、現代文学ではなく大衆向けの娯楽小説として刊行されたもので、本作の訳者もオースター作品を数多く翻訳している柴田元幸氏ではなく、これまで著名なハードボイルド小説を手がけてきた田口俊樹氏が担当している次第だ。
 物語は、一本の電話からはじまる。私立探偵マックス・クラインは、元野球選手のジョージ・チャップマンから仕事の依頼を受けることになった。ニューヨーク・アメリカンズの三塁手であるチャップマンは、あらゆるタイトルを総なめにする活躍を見せた名選手だった。ところが五年前、交通事故で左脚を失くし野球選手としての人生を終えた。だが、その後もセレブとして表舞台に顔を出し続け、やがて上院議員に立候補するだろうと噂されていた。そんな矢先、チャップマンのもとに脅迫状が届いた。そこでマックスの出番となったのだ。
 ニューヨークに事務所を構える私立探偵が有名人のトラブルにはじまる怪事件を調査していく物語。さらに、謎めいた美女や裏で暗躍する街の大物らが登場し、探偵は調査を重ねつつ彼らに迫っていく。しかもその主人公は、ことあるごとに、気の利いた比喩、ワイズクラック(へらず口)などこの手の小説に特有な言葉や科白を繰り出す男だ。これぞ正統派ハードボイルドの典型といえる要素を積み上げ、見事なまでに構築した物語である。
 だが、これがポール・オースターが書いたものであると知ると、さらに興味がわいてくる。野球用語が題名の『スクイズ・プレー』は、有名な元野球選手にまつわる事件を扱っており、探偵マックス・クラインもまた大学野球の選手だったという設定だ。マックスは無名選手のまま卒業し、ロースクールに通ったのち、地方検察局の仕事についた。作中、〈チャップマンが大活躍したそのシーズン、私は彼を追いながら、彼をどこか自分の分身のように見ていた〉との記述がある。じつは、作者ポール・ベンジャミンことオースターも熱心な野球少年だった。そのほか、マックスと彼の息子との関係など、詳しく読んでいくとあちこちにオースター自身の影が見える。
 すなわち『スクイズ・プレー』の主人公、探偵マックスは、オースター自身を投影させたキャラクターであり、そのマックスは、超一流選手だったチャップマンをもうひとりの自分のように見ていた。いくつもの〈分身〉がこの小説をつくっているのだ。
 このあたり、先に挙げた『ガラスの街』を読んでいれば、なお関心が深まるはずだ。ウィリアム・ウィルソン名義で探偵小説を書いている作家クインのもとへ奇妙な間違い電話がかかってきたことからはじまる物語。相手は「ポール・オースターさんと話したいんです」という。クインはやがて探偵になって街をさまよい歩き、謎は解決することなく、物語は意外な展開を見せていく。作中、ウィリアム・ウィルソンが残した小説の題名が『スクイズプレー』である。
『スクイズ・プレー』と『ガラスの街』という二つの小説は、そのまま元野球選手チャップマンと探偵マックス、そしてポール・ベンジャミンとポール・オースターとの関係に、どこかずれた感じを含め、似ているのだ。
 カフカやベケットを愛するオースターは、生活のため、お金のために『スクイズ・プレー』を書いた、とのちに明言している。だが、裏を返せば、お金を得るために売れ筋の作品を仕上げてみせたといえるだろうし、オースターの個性も強く残っている。そのまま読んでも面白いハードボイルド小説であることに加え、オースターの初期作品とあわせて読めば、その面白さが何倍にも増す探偵小説なのだ。


 (よしの・じん 文芸評論家)

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