書評
2022年10月号掲載
保存されている幼女
瀬戸内寂聴『あこがれ』
対象書籍名:『あこがれ』
対象著者:瀬戸内寂聴
対象書籍ISBN:978-4-10-311229-7
著者の生い立ちを主なモチーフとして紡がれた十七編。表題作「あこがれ」は冒頭に配されており、大阪へ行く船に乗る父を見送った夜のことが描かれている。「……九十六歳にもなったわたしに、生きる未知へのあこがれをしっかりと植えつけてくれたのは、あの夜だったと確信している」という一文で締められる一編に、読者もまた船出したかのように、豊かな小説世界へと誘われていく。
月並みな形容と思いつつ、「万華鏡のような」という言葉をどうしても使いたくなる。ひとつひとつの短編の、きらめきや、不思議な揺らめき。読み返すたびに風景の色が変化する感じ。しっとりとした回想録というよりは、わくわくする玩具のような一冊である。「魔術的リアリズム」と言われたガルシア=マルケスの世界を思い出したりもした。マルケスの舞台は南米、本書は徳島なのだが、同じくらい鮮やかでひみつめいたエキゾチズムと、それこそ「あこがれ」に似たものを感じさせられるのはなぜなのだろう。
実際のところ、本書に納められた掌編はどれも、回想録でも回顧エッセイでもなく、小説、というほかないものである。本書には、小説的「魔術」が満ちている。それはたとえば、著者の特質だと私が考えている、言葉に対して張り巡らされた神経にある。
先に紹介した「あこがれ」に登場する連絡船は、「小ぢんまりした胴体に似合わない大きなさけび声をあげて、船の発着を知らせる」。伯母の死を描いた一編で、幼い著者が姉と一緒に渡るのは、「日本一長いと信じこまされた赤い橋」だし(「消えた墓場」)、ろうじ(路地)にある駄菓子屋で店番をするのは、「脚の悪いおばはんと、その娘のまつげの濃い女」である(「路地があった」)。
さらりと書いているようで選び抜かれた言葉。あるいは、著者特有の回路を通って必然的に転がり落ちた言葉が、てらいのない平易な文章の中に窓を穿ち、思いもかけぬ奥行きの景色を現出させるのだ。
十七編のほとんどは、子供というより、ほとんど幼女の頃の回想である。その頃の感覚が、老齢の著者によって、このように保存されていることに驚く。たとえば風景描写で、周囲のものを視認する順番や、ある出来事を理解していくために最初に嵌めるピース。「(母親の)桃色の豆のような乳首をなめたり吸ったり、思いきり乳房を掴んだりする幸福を、私は誰が何といっても手放すものかと思っている」(「蠅」)というような感慨などは、まるで幼女そのものが書いているかのようだ。
小さかったなあ、かわいかったなあ、おばかさんだったなあ、という、凡百の回想録に(読者が、それに著者自身も)持つような感傷を、だから本書では持ちにくい。そのかわり、昭和初期の徳島の町に暮らす幼女の不安や恐れやあこがれや希望がそのまま、体の中に流れ込んでくるような心地になる。これは著者の記憶力のなせる業なのか、百歳近い老齢が人の感覚を揺り戻すということなのか。いや、先にも書いた通り、どの掌編も完璧な小説であるということを考えてみれば、著者は幼女の無垢や無邪気や、世界に対する幼女としての認識を、小説家として完璧に創作したとは言えないだろうか。
あたかも、幼女が少しずつ成長するように、本書一冊を読み進めるにつれ、登場人物のプロフィールや人生が少しずつ補填されていくような趣もある。たとえば、「蠅」では、「逐電」して家族を捨てた人だとあっさり記されていた祖父は、後の掌編の中で、女芝居の団長と駆け落ちしたということがあかされる。さらに「雨雲」という一編では、その女団長が「これ以上きれいに化けられないと思うほど、うっとりする美しさで……」と描写され、一座の町まわりを見物する近所の人たちの「あんなんを、毒婦っていうんじょ、男たらしの毒婦!」「へええ! ほな、おそろし女ごじゃな、ふうん、毒婦……か!」というようなやりとりがあらわされる。万華鏡の奥へ奥へと、読者は引きずり込まれていく。
後半には、亡き姉に語りかける「はらから」や、自身の結婚の経緯を書いた「ハルピン駅」なども並び、最終話「星座のひとつ」では、著者は飛行機の中にいて、この世とあの世の境目をたゆたっている。船からはじまった掌編集が、飛行機の中で閉じるというのも、いかにもこの著者らしい格好よさではないか。
(いのうえ・あれの 作家)