書評

2022年10月号掲載

裂けた日本を描く思考実験小説

佐々木譲『裂けた明日』

西上心太

対象書籍名:『裂けた明日』
対象著者:佐々木譲
対象書籍ISBN:978-4-10-455512-3

 近年、佐々木譲は改変歴史小説に力を注いでいる。
 日本が日露戦争に敗れた後の世界という設定の『抵抗都市』(二〇一九年)と続編の『偽装同盟』(二一年)は大正時代。シベリア入植者の息子がたどる数奇な運命を描いた『帝国の弔砲』(二一年)は、明治から昭和にかけての物語で、直接的なつながりはないが、時代の一部や背景が共通する。
 タイムリープがテーマの『図書館の子』(二〇年)は、日本を戦争に突き進む道から逸らそうと尽力するタイムトラベラーが登場する作品も収録されている、もっともSF寄りの短編集である。
 そして改変歴史小説の第四弾に当たる本作は、内戦状態に陥った近未来の日本が舞台となる。
 福島県二本松市に住む沖本信也のもとに酒井真智(まち)と由奈の母娘が現れた。真智の両親と沖本は大学の同期で、ともに青春時代を送った親友だった。真智は治安紊乱(びんらん)活動に関わったとして盛岡政府から追われ、仙台から逃げてきたのだ。沖本は二人を助けることを決意する。
 沖本は元市役所勤めの七十歳すぎの男だ。彼が大学生だった時の描写などから、作中の時代は二〇三〇年代ではないかと比定できる。
 沖本の住む世界では大きな変化が起きている。朝鮮半島ではついに高麗連邦という統一国家が出現した。一方の日本は経済を建て直すことができず、国力は没落の一途をたどっている。沖本は七年前に妻を「あの病気」で失い、息子一家もまた南海大震災で死亡していた。
 そんなおりに「あの戦争」が始まったのだ。だが日本はたった四十日で降伏、多国籍の平和維持軍が進駐し、それまでの野党勢力が中心となった国民融和政府が成立した。しかし旧日本政府の正統後継政権を自称する盛岡政府が東北を中心に権力を握っており、沖本の住む二本松市は、両勢力の境界に近い土地であった。
 盛岡政府の手が届かない、平和維持軍が掌握する地に母娘を逃がすため、沖本が立てた福島県内を移動する道程とある手段が序盤の読みどころだろう。市役所に勤務していたころの経験で培った、知られざる山中の裏道や人脈を駆使するのである。
 ところがあるアクシデントが起こり、沖本自身も逃亡を余儀なくされる。沖本は母娘とともに、次の目的地である東京の中心部にある共同統治地区に向かう。
 いやはや恐ろしい小説である。この作品の中で描かれる「現実」は、いまわれわれが生きている現実から生じ、導かれたものなのだ。政府与党による悪政。批判を忘れ(恐れ)権力に棹さすマスコミ。投票を棄権し権力を追認する四割もの有権者。そして異民族などマイノリティに対するヘイト行為を恥じない者たち。
 中盤に至るとようやく「あの戦争」がどういう経緯で起こり、どこの国と戦いどのように決着したのかが明らかになる。開戦からあっけない敗戦に至る一連の顛末は、まるで笑えない喜劇である。「あの戦争」も、専守防衛を捨て、敵基地攻撃能力を認めようとする与党の現実世界での動きが、作中の世界では実現したことによって生じたのである。いまの現実社会で指した悪手が、少し先の未来では挽回不能な局面を呼び込んでしまう。ここに作者が込めたメッセージが読み取れる。
 サスペンスたっぷりの逃亡小説としての面白さを保ったまま、こういう時代が到来しかねないという、思考実験小説としての一面も浮かび上がるのだ。
 また事故処理が続く福島第一原子力発電所を始め、戦争時における原発の扱いも実にリアルで驚かされる。特に前者は沖本たちの逃走のキーとなるし、両陣営の戦略にも関わってくるのだ。
「北」と称される全体主義的な盛岡政府。平和維持軍の武力の後ろ盾はあるが、盤石とはいえない国民融和政府。互いの陣営の中にも反対者はおり、境界線付近での戦闘だけでなく、街中での爆弾テロも横行している。本書のタイトルに込められた意味を、じっくりと「今日」の世界から噛みしめたい。そして作者の思考実験によって描かれたこの世界が、決して実現しないことを願う。


 (にしがみ・しんた 文芸評論家)

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