書評

2022年11月号掲載

『天路の旅人』刊行記念特別エッセイ

空と天

沢木耕太郎

対象書籍名:『天路の旅人』
対象著者:沢木耕太郎
対象書籍ISBN:978-4-10-327523-7

 去年の秋のことだった。
 夕方、神楽坂で人と会う約束があり、少し時間に余裕があったので、飯田橋駅に近い書店に立ち寄った。
 以前は、同じ神楽坂にある新潮社の、「クラブ」という名の執筆部屋に長期滞在することが多く、午後になるとよく散歩がてらここまで足を延ばして店内で時間を潰させてもらった。
 この日は、久しぶりだったが、やはり、特に何か本を買おうというより、時間を潰すことが目的という、書店にはあまりありがたくない客だったかもしれない。
 かつてと同じく正面から入ると、のんびり右側の奥に位置する文芸書の新刊のある棚に向かった。
 だが、平台に並んでいる本に眼を落としながら歩いていた私は、あるところで、思わず「あっ!」と声を出しそうになるほど驚いて、足を留めた。
 そこには『天路』というタイトルの本が置かれていたのだ。

 私が西川一三(かずみ)という人物に興味を抱き、会いに行ったのは、いまから二十五年前のことだった。そして、彼と、彼のその旅について本格的に書きはじめたのが、七年前のことになる。西川一三はすでに亡くなっていたが、いくつかの偶然が、私に書くことの火を焚きつけてくれた。
 当初、私は、もしその原稿が書き上がったら、タイトルを『空』にしようかと考えていた。「空」と書いて、「そら」ではなく、「くう」と読ませる。さまざまな束縛から解き放たれて、浮遊するように旅をしている状態を表したかったからだ。
 しかし、「空」とだけ書いた場合には、なかなか「くう」と読んでもらうのは難しいことはわかっていた。とすれば、「空」にルビをふることになるのだろうか。それも、なんとなく気が進まない。
 それだけでなく、「空」を「くう」と読んでもらうとすると、そこにどうしても仏教的な意味合いが濃く付着してしまう。西川一三はラマ僧に扮して旅を続けたのだから、仏教的であることは問題ないが、私たち日本人は、『般若心経』に出てくる「色即是空 空即是色」における「空」の概念に強く引きずられてしまうような気がする。
 どうしようか迷っているときに、「天路」という言葉が浮かんできた。日本語に「天路」という言葉があるかどうかわからない。かつて「天路」と書いて「あまじ」と読ませる女優さんがいた。あるいは、古語にあるか、地名に残っているのかもしれないが、「てんろ」としてはジョン・バニヤンの『天路歴程』以外に見たことがない。しかし、西川一三の足掛け八年に及ぶ旅の自由さと破天荒さは、そのルートがまさに「天によって導かれた路」というにふさわしいものではなかったかという気がしてきた。
 そのとき、『天路の旅人』というタイトルがほとんど決まった。
 以来、時に、私の書物に署名を求められるようなことがあると、名前と共に「天路を歩む」という短い言葉を添えるようになった。自分の遅々とした歩みも、常に自由を求めてのものだったが、それもどこかで「天」といった存在に定められた道だったのかもしれないという思いを強くするようになっていたからでもあり、同時に、「天路を歩んだ」旅人である西川一三についての作品を何としてでも書き切ろうという思いを新たにしたかったからでもあった。
 そして、昨秋、ようやく『天路の旅人』の第一稿が書き上がった。来年には、なんとか完成するだろう。出版社の編集者とそのことについて相談しようか……。

 飯田橋の書店で『天路』という新刊書を眼にしたのは、まさにそのようなときだった。
 本の著者は、リービ英雄さんだった。私はリービ英雄さんのよい読者ではないので、それがどのような内容であるかの見当はつかなかった。しかし、帯には「チベット」という文字も見えて、さらに衝撃を深くした。『天路の旅人』の舞台も、多くはチベットなのだ。もう、『天路の旅人』というタイトルは使えないかもしれない……。
 私は、なかば茫然としつつ、その本を手に、レジに向かいかけて、立ち止まった。以前、これとよく似たことがあったのを思い出したからだ。
 かつて私が『深夜特急』という本を出そうとしていたとき、あらかじめ表紙にはカッサンドルの「北方急行」というポスターを使おうと決めていた。ところが、その直前に、他社から、カッサンドルのまったく同じポスターを表紙の全面に用いた本が出てしまった。私はがっかりし、装丁家の平野甲賀さんに、あれは使えなくなりましたと告げた。すると、平野さんはその本の表紙を見て、いとも簡単に言ったものだった。
「問題ないよ」
 そして、まさに、それとは別種の、見事としか言いようのない装丁に仕上げてくれたのだ。
 私は、そのときの平野さんの言葉を思い出し、「問題ないよ」と自分に言い聞かせると、手にした『天路』を平台に戻し、そのまま書店を後にした。まだ、第一稿しか書き終わっておらず、これから第二稿、第三稿と書き進めていかなくてはならない。『天路』を読んで、深く影響されるということがあるかもしれない。それを避けようと思ったのだ。

 そのことがあってから約一年、ようやく『天路の旅人』の出版に関するすべての作業から解放された。念校に眼を通し、「あとがき」も書き終えた。
 しばらくしたら、リービ英雄さんの『天路』を手に入れ、読ませていただくつもりになっている。読んで、さらに大きな衝撃を受けるかもしれないが、いまの私には、それはそれでひとつの楽しい出来事と受け止めることができるように思うからだ。


 (さわき・こうたろう 作家)

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