書評
2022年11月号掲載
そのようにしか語りえなかった声
ローベルト・ゼーターラー『野原』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『野原』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ローベルト・ゼーターラー/浅井晶子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590184-4
さびれた墓地を老いた男が訪れ、白樺の下にあるベンチに腰掛ける場面から『野原』ははじまる。男は毎日のようにその場所へと赴き、「死者たちの声」に耳を傾ける。そのようすは、原稿用紙に向かう小説家にも似ている。もはやここにはいない者たちの顔を思い浮かべ、それが薄れつつある記憶が作り上げたイメージでしかないとわかりながら、戯れることを楽しむ。鳥のさえずりや虫の羽音のような、なにを話しているともしれない死者たちの話し声に、飽きることなく耳を傾ける。そして、男は信じている。自分の耳にしているものは、死者たちの声そのものにちがいないのだと。
パウルシュタットというオーストリアの架空の町に生きた、二十九名の死者たち。『野原』では、冒頭の男の短い章をはじめに、死者たちがかわるがわる現れては、おのおのの人生の断片を語ってゆく。ある死者の語りのなかにほかの死者が登場することもある。かならずしも親愛のもとに語られるわけではないが、ともかく死者たちは互いを照らしあい、そこに新たな横顔が浮かんでくる。
人の一生を余すところなく物語る。根源的には不可能なそのことを、ゼーターラーの前作『ある一生』はほとんど成しえていると感じた。村はずれの山腹で生涯の多くをすごし、妻と暮らした短い年月をのぞいて、ほぼ人とのかかわりを持たず生きた男、エッガー。その背景には、文明が、戦争が、自然が、死が、人の逃れることのできないあらゆる大きなものが、どれもエッガーの手に触れる具体的な事物の感触(石埃をたてる削岩機/敵前で放り投げた銃/掻き出せない硬い雪)を通して描かれ、だからこそ作中で語られることのなかった日々さえも、触れずともそこにあったとたしかめられるような感覚があった。150ページほどの長大とはいえない紙幅のうちには、踏まれなかった地平までもが広がっていた。
『野原』における死者のひとりで、パウルシュタットの町史に刻まれるとある事件の当事者である少年が、こんなふうに語る。
〈母さんはまだ知らない。僕自身がまだ知らないから〉
母さんが、僕自身が、いったいなにを知らないのか? そのことが説明されることはないまま、少年はただ死の当日までの出来事を、断片的に言葉にする。体の下で、地球の心臓が鼓動する感覚。ウサギの血みたいに黒い池の水。なにもかもが固まった冬のヒキガエル。
少年の謎めいたこのひと言が胸に残り、そうしてふたたび二十九名の死者たちの言葉をたどっていると、まるで死者たちがこう訴えてくるように感じた。あなたはまだ知らない。わたし自身がまだ知らないから。
たとえ死という終着地にたどり着いたとしても、ひとは自分自身の生の全貌を、まるごと見晴るかすことなどできはしない。二十九名の死者たちの語りには実際、謎や誤解が残り、誇張を免れず、時におろかな自己弁護さえはらんでいる。そうしたあくまで不完全なものとして、死者たちはそれぞれの来し方や、忘れがたい一瞬について物語ることを試みている。
ただひと言、罵詈雑言を述べる者がいる。記憶としての像を結ばない、客観的な記録を並べることしかできない者がいる。そのような死者たちの来歴や思いを読む者が知ることは、『野原』において、最後まで叶わない。けれども、少年の言葉を心に留めながら、このように感じる。それらの声は語るべきことが欠落したものではない。そのようにしか語りえなかった声なのだと。
語られた内容とは異なる、声のありようそのもの。そこにこそ実は、二十九名の生の相貌が刻まれているのではないか。たとえ言葉は多くの誤謬を抱えたままだとしても、その声にだけは、ひとつの真実が宿るのではないか。
〈ひとつひとつの声がもう一度聞く耳を得たらどうなるだろう〉
作品冒頭の老いた男がそんなふうに思いつくところから、『野原』ははじまっていた。死者たちが「声を得たら」ではない。生あるわたしたちが「耳を得たら」と、そう男が着想したことをあらためておもう。
『野原』が死者たちに与えるのは、慰めではない。それは慰めよりも冷ややかで、慰めよりも硬い。手にとって携えられる種類のものではなく、広大で、だからこそ誰をも誘い、好き好きに歩ませることができる。そんな地平こそが、死者たちには与えられる。ゼーターラーが二十九名の死者たちの向こうに描いた、新たな大きなもの。野原とも仮に呼びうるその広がりは、生きているわたしたちにもその静けさを届け、分け与えてくれる。
(こいけ・みずね 作家)