書評

2022年11月号掲載

読み返さずには、いられない。

辻堂ゆめ『君といた日の続き』

荻原浩

対象書籍名:『君といた日の続き』
対象著者:辻堂ゆめ
対象書籍ISBN:978-4-10-354791-4

 断言してもいい。この小説を読んだあなたは、読み終えたあとに(いや、たぶん待ちきれずに終盤にさしかかったら)、ページを逆にめくり、前へ戻って、すでに読んだあそこの場面や、あの時の言葉を読み返すことになるだろう。そして作者辻堂ゆめが、物語の中のあちこちに仕掛けた、びっくり箱や巧妙な罠を知ることになる。
 この小説の結末はけっして人に話してはいけません――という取扱説明が必要な作品だから詳細はここでは明かせないが、驚くよ。頭がくるっと一回転して、そのあとに胸がきゅっとなって、どきっとしてじわっときて……なんだかへたくそな説明の見本みたいな文章だけど、ほら、このへんもくわしく書いちゃうと、なにかとあれだから。ひとことで言えば、凄(すげ)え。

 辻堂ゆめ『君といた日の続き』は、こんな一行から始まる。
〈長い雨の切れ間に、女の子を拾った。〉
 四十七歳の友永譲は、十歳の娘を亡くし、娘の死がきっかけでぎくしゃくしてしまった妻とも別れて、独り暮らしをしている。その彼が七月半ばのある雨の日、路上に座り込んでいるずぶぬれの少女と出会い、すべてが始まる――。
 少女は記憶の多くを失っていて、自分は過去から来たという。苗字も覚えていないし、本名かどうかもはっきりしないようだが、名前は「ちぃ子」。
 譲は他に選択の余地もなく、少女を自宅に保護することになるのだが、いまのご時世、中年男が少女(十歳ぐらい)を家に連れ込んで、しかも諸事情が重なったにせよ、一緒に暮らし始めるなんて、それだけで、サスペンスだ。
 おいおい友永という男はどういうヤツだ。まさかロリコンじゃないだろうな。そうじゃなくても世間の目があるだろうに。しかも、譲には小学生時代に自分の身近で起きた少女誘拐殺人事件の記憶が生々しく残っているのだ。
 だいじょうぶなの、この二人。

 おっさん(私のことですね)の邪推をよそに、疑似父娘となった二人の暮しは、ほのぼのと過ぎていく。見かけは小学生のちぃ子は、中身は一九八〇年代からやってきたおばちゃんで、懐かしいフレーズや死語を連発する。これが可笑しい。
「コーラを飲むと、歯とか骨が溶ける」「水曜日は、『ど根性ガエル』」「ガビーン」「めんごめんご!」コロナに驚愕し、テレビの薄さに驚き、「板チョコみたい」なスマートフォンの電池は単三か単四かと訊ねる。そのくせたちまちスマホのフリック入力を覚え、Youtubeで松田聖子や中森明菜の未来の曲を聴く。そもそも譲が、過去から来たという彼女の突飛な言葉を信じ始めたのも、ちぃ子がスカートの汚れ隠し(!)にワッペンをつけていたことと、そのワッペンを『アップリケ』と呼んでいたからだ。
 じじいの領域に入りつつある私には、八〇年代なんてそう昔のこととは思えなかったのだが、じつはこの三十数年の間に世の中が大きく変わってしまっていることに、改めて気づかされた。つけっぱなしのクーラーに「窓、開ければ?」と言い放つ、ちぃ子の言葉が耳に痛い。
「未来の日本って、どうなっちゃってるの?」ちぃ子に問いかけられた譲は、説明に窮する。嫌な時代だ――とため息をつきそうになる。
〈つくづく難しい時代だ。この子が未来というものを盛大に誤解しないだろうか、とやや不安になる。二〇一九年まではもうちょっとましな世界だったのだと、どこかのタイミングでもう少し強調しておくべきかもしれない。〉
 本当にその通りだ。

 現代を舞台に小説を書く作家にとって、コロナをどう描くかは大きな問題だ。とくにマスク。登場人物にマスクをさせないと時代のリアルが失われてしまうが、マスクをさせてしまうと風貌や表情がきちんと描けない。「その部屋にいた口髭の男は唇の片側だけでにやりと笑った」なんて一生懸命描いても、読者には「部屋の中でマスクもつけないなんて、なんて男なの!」と思われるだけだ。
 辻堂ゆめは、この小説で、コロナの時代に真っ向勝負を挑んでいる。ちぃ子は夜寝る時にもマスクをかたくなにつけ続ける。未来の未知のウイルスが怖いせい? 感染してワクチンのない元の時代に帰ったら、コロナを蔓延させてしまうから? いや、理由はそれだけではなさそうで……コロナの時代を記録に残そうとするように克明に描きつつ、したたかにマスクを物語の重要な小道具にしてしまう。
 チャレンジングで、メッセージがあり、優しくて、面白い。いい小説だ。


 (おぎわら・ひろし 作家)

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