書評

2022年11月号掲載

スタートアップ投資は「文化」である

トム・ニコラス『ベンチャーキャピタル全史』

鈴木立哉

対象書籍名:『ベンチャーキャピタル全史』
対象著者:トム・ニコラス/鈴木立哉訳
対象書籍ISBN:978-4-10-507291-9

 日本経済は今や「失われた30年」に達しようとしている。
 日本企業の時価総額ランキングを見てみよう。今からちょうど30年前、1992年の1位はNTT。以下5位のトヨタを除くと10位まですべてが金融機関。さらに20位までの顔ぶれを見ると、金融機関以外ではパナソニック、東芝、新日鉄、セブン‐イレブン、三菱重工、ソニー、イトーヨーカドー、任天堂だ。現在のトップ10はどうだろう。トヨタ、NTT、ソニーG、キーエンス、ソフトバンクG、KDDI、ファーストリテイリング、三菱UFJ、第一三共、任天堂だ。金融機関はほぼ交代したが、どう見ても「代わり映えしない」との印象が拭えないのである。ひるがえってアメリカはどうか。マイクロソフト(1975年創業)やアップル(1976年)を例外として、グーグル(1998年)やメタ(2004年)、アマゾン(1994年)、テスラ(2003年)、エヌヴィディア(1993年)など、30年前にはまだ存在すらしていなかった企業群が急成長を遂げ、世界経済全体を席巻している。GAFAMの時価総額はいまや東証プライム市場より大きいという。
 一方で、時価総額ランキングから退場したゼネラルモーターズのようなかつての大企業が、ただ手をこまねいているわけではない。投資事業に力を入れ、スタートアップの活力を内部に取り込むことで、復活を期している。
 この日米の差はどこからやってくるのだろうか。そこにひとつの答えを提供しようと試みるのが、スタートアップへの投資に特化した経済史を描いた本書『ベンチャーキャピタル全史』である。その訳者であり、長年金融業界の前線をウォッチしてきた立場から、本書の価値を考察してみたい。
 今年7月、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)がスタートアップ投資に乗り出すことが報道された。GPIFの運用資産は約200兆円で、世界最大級の機関投資家だが、本書を読むとそれがアメリカを模範とするものであることがわかるはずだ。日本においてはスタートアップへの投資額に占める年金マネーの割合は3%程度にすぎないが、アメリカでは32%にものぼる。年金の運用といえば、日本では超保守的で手堅いというイメージがあるが、アメリカではスタートアップの資金の柱は年金なのだ。
 本書が指摘するのは1974年従業員退職所得保障法(通称「エリサ法」)の重要性だ。これによって年金加入者の保護を強化しつつ、年金マネーがリスク含みの投資を行える範囲が急拡大し、スタートアップの資金が潤沢になった。年金とスタートアップという一見似つかわしくない両者が結びつくのが、アメリカが育んできた「文化」なのである。
 本書が大学の役割に注目している点も見逃せない。たとえばスタンフォード大学の学長であったフレデリック・ターマンが大学の基礎研究と新興のハイテク企業を結びつけようと奔走し、文字通り汗をかく様子が本書では描かれている。ナチスから逃れてきたユダヤ人のラッセルとシグールのヴァリアン兄弟を招き、レーダー技術を研究させて莫大な特許収入を大学にもたらし、自身もコンピュータの歴史を語る上で欠かせないHP(ヒューレット・パッカード)の最初の投資家の一人に名を連ねた。大学人にして「シリコンバレーの父」と称される所以である。
 東京工業大学と東京医科歯科大学が統合の動きを見せているが、10兆円規模になる政府系ファンドの支援を受けることを目指しているとされる。果たして新大学はスタンフォード大学のように歴史に残る破壊的なテクノロジーやスタートアップを生み出すことができるだろうか。
 考えてみれば日本人に馴染み深いトーマス・エジソンもスタートアップ経営者だった。ジョン・ピアポント・モルガンなどの投資家と厳しいやりとりをして資金調達し、エネルギー領域(電気)やコミュニケーション領域(映像や音声)といった分野で次々と新しいテクノロジーを開発した。イーロン・マスク率いるテスラの社名の起源となったニコラ・テスラとルール無用の苛烈な「電流戦争」を戦い、がむしゃらにプラットフォーマーを目指す姿は、Web3などの新しい市場の制覇を目論むテック・カンパニーや創薬スタートアップなどのエンジニア経営者の姿にぴったりと重なる。資金調達に奔走し、時に激烈な競争関係にあった対立企業をなりふり構わず誹謗中傷して潰しにかかる姿は、日本人が抱く「偉人」のイメージからは隔たりがある。エジソンの姿勢はむしろマスクやスティーヴ・ジョブズの気性の荒さを想起させるが、その激しさなくして現在まで続くゼネラル・エレクトリックはないし、ハリウッドが映画産業の中心になることはなかったかもしれない。
 現在のスタートアップ投資の最前線であるシリコンバレーにおいて、女性が疎外され、その活力が生かされていないといった問題点も指摘する本書は、日本経済が復活するための示唆に溢れていると確信している。本書の翻訳に携われたことを心から光栄に思う。


 (すずき・たつや 金融翻訳者)

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