書評
2022年11月号掲載
武士の本懐とウィル・スミス
呉座勇一『武士とは何か』(新潮選書)
対象書籍名:『武士とは何か』(新潮選書)
対象著者:呉座勇一
対象書籍ISBN:978-4-10-603890-7
男はやおら席から立ちあがり壇上に向かうと、司会者にビンタをお見舞いした。観客は一瞬狼狽し言葉を失う……。やがて事情が明らかになる。司会者は彼の妻を侮辱したのだ。
ご記憶だろうか。俳優ウィル・スミスがアカデミー賞授賞式で引き起こした騒ぎの顛末だ。賛否両論、議論が湧き起こったが、公共の場での暴力に「ゼロ・トレランス」の態度で臨む米国では、ウィル・スミスの謝罪と授賞式などへの出席禁止で一応の落着をみた。だが、割り切れぬもやもやが残った人も多いのではないか。かくいう評者もその一人である。
彼が妻を「代弁」したことが事態をややこしくした。妻は夫の所有物ではない。妻に代わって殴るなど有害な男性性の発露そのものではないか。その通り。だが、では、妻自身が殴っていたらどうか。それは称賛に値する行為なのか否か。依然として問題は残り続けたはずなのである。
本書『武士とは何か』を読んで評者はこのビンタ騒動を思い起こした。何を言っているんだと思われるだろうか。本書は、中世武士やその周辺の人物が残した(とされる)名台詞の実際を解き明かしていくものである。一次史料の精査と先行研究の整理、その手さばきはいつもながら見事だ。だが本書の魅力は、著者がすでに定評のあるその手堅い「実証」の手法を踏み越えて、武士の「メンタリティー」に迫ろうと試みたところにある。そして、著者の見るところ、武士の「メンタリティー」の核心は残虐性と名誉感情にある。つまり、武士の本懐は、「舐められたら殺す」(漫画『バンデット』より)にあるというのである。
著者自身認めるように、最近の研究ではこうした武士像の評判は高くない。洗練のすえに軟弱化した京都の貴族に対し、草深い坂東の田舎で多少は野蛮だが活力のある武士が挑戦するという図式――大河ドラマをはじめとするフィクションの世界ではいまだに根強い――は、少なくとも学問の世界では、反省を迫られて久しい。武士の起源は京都にあり、その存在形態やアイデンティティーは京都の制度や権威に深く依存していた。最新の研究潮流はそう教える。だが、と本書の著者は反問する。最近の研究潮流は、従来の通念の問い直しに急なあまり武士の起源論に傾斜しすぎてはいないか。なるほど起源において武士は確かに「京都」の影が濃いとしても、その後、実力を蓄え独自の気風やエートスを育んでいったのは確かである。「武士とは何か」を考えるにあたって重要なのは、むしろこうした気風やエートス、つまり「メンタリティー」の方なのではないか。
後鳥羽上皇や後醍醐天皇の言葉も紹介されている本書であるが(それはそれでとても面白く興味深いのだが)、本書の白眉はしてみるとやはり、「謀反を企てたと噂されるのは武士としてむしろ名誉だ」と嘯(うそぶ)いた畠山重忠、刑死を待つ身の上ながら「身体に悪い」と勧められた干し柿を拒否してあくまで後日を期す気構えを見せた石田三成であろう。自分の誇りや信ずる大義のためならば、たとえ成功の目算は低く逃げた方が合理的な状況であっても、戦うことを選ぶ。フィクションの世界で、(無論理想化され美化された)アウトローの美学や矜持にそれは通ずる。現代の作家が、まるでヤンキーや不良、ごろつきのように中世武士たちを描くのは、おそらく正しいのである。アウトローの美学は、「ごろつきの道徳」(折口信夫)としての武士道からやはりそう遠くはないのである。
ウィル・スミスに戻ろう。自力救済が当たり前だった中世の武士と、文明社会にして法治国家に住むわれわれとは異なる。この現代社会で、気に食わないからといって暴力に訴えることは無論、許されない。有害な男性性は排除されてしかるべきだろう。
だが、自分の大事な人が、あるいは自分の心のなかの柔らかい部分が踏みにじられた時、私たちは黙って引き下がるべきなのか。落ち着いて冷静に抗議するべきなのだろうか。本当にそれでよいのか。そういう冷静な人間ばかりで世の中はよくなるだろうか。
ここには「権利のための闘争」として知られる重要なジレンマがある。我々の文明社会ではすべての人にあまねく人権が認められている。だが、人権の行使はしばしば割に合わない。あからさまな不正を蒙(こうむ)っても、反撃しないことが合理的なことは実によくある(だって、あとあとめんどうだし)。しかし、そうした人ばかりでは人権は形骸化してしまう。そう、人権は実は目先の利益を度外視した「舐められたら殺す」の心持に支えられているのである。「武士とは何か」が投げかける問題は、その意味で、私たちの現在と無縁ではない。
(こうの・ゆうり 法政大学教授)