書評

2022年11月号掲載

私の好きな新潮文庫

日本語と酒とちょっぴり珍味

鈴木啓吾

対象書籍名:『私家版 日本語文法』/『対談 美酒について 人はなぜ酒を語るか』/『ごくらくちんみ』
対象著者:井上ひさし/吉行淳之介・開高健/杉浦日向子
対象書籍ISBN:978-4-10-116814-2/978-4-10-112812-2/978-4-10-114918-9

(1)私家版 日本語文法 井上ひさし
(2)対談 美酒について 人はなぜ酒を語るか
(3)ごくらくちんみ 杉浦日向子


 私が能楽と出会ったのは大学に入ってから。いま能楽師として能を生業にしているわけだが、もとより能の家の子ではない。能とは全く関係のない家に生まれ育ち、大学の能楽のクラブに所属して稽古するうちどっぷりと能にハマり、親の反対を押し切って師匠家に入門した、いわば落研に入って落語に目覚め、そのまま噺家の道に進んだという方々と同類である。
 国文学を専攻した私が在学中から三十年以上にわたって拘ってきたのは「歴史的仮名遣ひ」いわゆる旧仮名での文章表記であった。が、日頃から旧漢字・旧仮名・変体仮名まで用いられている謡本に慣れ親しんでいるはずの能楽師や能楽愛好家でも、現代人が記す文章が旧仮名表記だと奇異に感じるのか、一歩引かれてしまう感が否めなかった。まして普段から古典に親しんでいない人の目には不可解な文章としか映らなかったようであった。旧仮名表記に拘るあまり、その結果読み手の心に言葉が届かないのでは意味がない。あるとき書籍の執筆のお誘いをいただいたことをきっかけに私は「旧仮名」を捨てた。随分と拘ってきただけに、それまでの自分を自ら裏切るような、否定するような複雑な気分であった。大袈裟に言えば正しいと信ずる表記法を捨て去ることへの罪悪感めいたものすら感じていたのだが、その凝り固まった頑なな気持ちをほぐしてくれたのが井上ひさし氏の『私家版 日本語文法』だった。

私家版日本語文法
「……正しい、美しい、理想の日本語などというものはない。それは永遠の幻である。いま、ある日本語。われわれがいま喋り、聞き、書き、そして読んでいるもの、それが日本語の総和である。正書法を求める人たちは、だから虹の橋を渡ろうとしているロマンチストたちのことであると言い得るだろう」

 さぁ、ほっとしたところで一杯飲(や)ろう……。
 はて、考えてみるに私はいつも同じような物をツマミに、同じ酒を飲んでいる。外で飲んでもこの店ではこれとこれ、あの店ではあれとあれといった具合で変化を楽しむ習性がない。これはもちろん拘りということではないけれど。元来冒険のできない質(たち)だが、好きなお酒ぐらい冒険心を持って楽しもうじゃないか。きっとその好奇心を充分に満たしてくれるに違いない、そう思って手にしたのが吉行淳之介氏と開高健氏の『対談 美酒について――人はなぜ酒を語るか――』。この二人の巨人の積み重ねてこられた国内外の酒・性・文化・文学などの豊かな経験、尽きぬ話題はまさに冒険王。巻末に載せられた銘酒豆事典により一段と深くお酒の知識を得ることができ有難いのだが、何しろこのお二人のお酒とその生き様……。とてもついてゆけず、読むだけで酔いが回って、くらくらとしてくるような濃い一冊である。

美酒について
開高 ……コニャックでもスコッチでも、ウオツカ、ホワイトラム、テキーラ、極上品を全部飲んだ自信がありますが、そこで一言言いたいのはその極上品と言われるものには全部共通した性格が一つある。それは水に似ている。とくに喉を通っていくときに水に似てくる。いくらでも飲める。
吉行 それはよくわかるな。日本酒にも言えるんじゃない。
開高 おっしゃるとおり。焼酎でもそうです(中略)淡々として水のごとし、君子の交わりですね……」
 確かに良い酒はそうだなぁ……と共感するのであるが、それにしてもこのお二人は酒呑みとしてのスケールが大きすぎる。もう少し我が身の丈にあった小さな冒険はできないものか……。

 ある時仕事で訪れた福井の街。街中の小さな鮨屋のカウンターで塩うにを嘗めつつ地酒を呑み、これはまさに“ごくらくちんみ”だ!と、杉浦日向子氏の掌編小説『ごくらくちんみ』を思い出した。

ごくらくちんみ
「ちょっぴり嘗める。ちょっぴり呑む。舌にいつまでも濃厚にまとわりつく塩うには、荒磯の香りを充溢させる。そこへ、コニャックの芳醇なヴェルヴェットのようなふくらみのある酒が融和すると、己の体の輪郭さえ、部屋の空間に溶け、散華する恍惚感に包まれる」
 どんな食レポも杉浦氏の筆致には敵わぬと思えるほどの豊かな表現。ごくごく短い掌編の物語の中に、珍味とお酒の味わいが絡み合い、一編一編の小説がそのままひとつひとつの珍味と人生の、熟成した深い味わいとなっている。

 拘りを捨て、旨い酒と珍味を求める……。以来、無駄にとらわれることの無い心の自由と、ごくごく小さな冒険のワクワクが私にも芽生えた。


 (すずき・けいご 観世流シテ方能楽師)

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