書評
2022年12月号掲載
豊かな水脈
北村薫『水 本の小説』
対象書籍名:『水 本の小説』
対象著者:北村薫
対象書籍ISBN:978-4-10-406616-2
わくわくする本だ。これからそれへ、それからあれへ、思いがけない道筋で次々つながることの妙味。遠藤周作と梅原猛を、塚本邦雄と三島由紀夫を、芥川龍之介とチェーホフをつなげられる人が北村薫以外にいるだろうか。由紀さおりと戸板康二を、大辻司郎と松本清張をおなじ文脈で語れる人が? 本が主役ではあるけれど、歌舞伎、落語、映画、小唄、漫談、童謡、テレビやラジオの番組や、コマーシャルや歌謡曲まで、言葉にまつわるものはみんなつながってしまう。なるほど、と腑に落ちたり、へえ、と驚いたり、おお!と快哉を叫んだり、それでそれで?と好奇心をかきたてられたりするこの本を読む喜びは、ほとんど肉体的と呼びたいような快楽だ。無論これは著者の博識抜きには存在し得ない本だけれど、おもしろいのは(そしてとても美しいのは)、著者の博識以外の要素がしばしば躍り込んでくることで、ここにはたくさんの人の記憶や記録や知識や、偶然および必然の出会いや時の流れが折り重なり、響き合っている。
たとえば著者の子供のころの記憶。『巌窟王物語』のなかに「たまらなく恐ろしい場面」があり、それは「孤島の牢に閉じ込められるところより、袋詰めのまま荒海に投げ込まれるところより、ずっとずっと嫌でした」と語られる(これだけでもう、どんな場面か知りたくてうずうずすると思うけれど、続きは本文で読んでいただくとして、記憶の例を続けます)。獅子文六の新聞小説『バナナ』を読んで、「蒸しタオル」のでてくる場面が強く記憶に残ったのはなぜか。あるいはまた、新聞の連載漫画にでてきた小唄、「からかさの~ ほねはァばらばら」に対して抱いた違和感のこと。ああ、わかる、と、それらの作品を知らないのに思ってしまうのは、たぶん誰もが子供のころに(時代や作品こそ違え)、似た経験をしているからで、つまりここで著者の記憶は本からはみだして、読者のそれとつながってしまう。加えて、本書の重要登場人物である「プー編集長」や「担当さん」や「恩藏さん」の記憶もひもとかれる。それだけでも十分重層的なのだが、この本が特別なのは、著者の記憶とおなじ比重、おなじ鮮烈さで、いまはもういない岸田今日子の、團伊玖磨の、小沢昭一の、芥川龍之介の記憶が息づいているからだ。記憶は個人のものだけれど、この本のなかで、それらは個人を越え、時代も場所も越えて地下水脈みたいにつながっている。そのことが心愉しく、心強い。
創作カルタあり、謎の本探しあり、文豪話あり、東京弁考察あり。びっくり箱のような一冊で、発見に満ちている(ええっ、「駅ー、駅ー」というコントはドリフターズのオリジナルではなかったのか!!!とか)。ときに憂いをのぞかせながら(味わうのに楽をすることへの警鐘や、「もし理解出来ないなら、バーを下げるのではなく読者の方が跳べるようにならなくてはいけない」という基本原理、「ならぬことはならぬものです」という言葉の重さや、「今のあの音この音も、保存されなければ時の流れの中に溶けてしまうことでしょう」に滲む無念さ)、それでもここには書物や言葉、あるいは文化そのものへの圧倒的な、そして頑固な信頼がある。
書名通り“水”みたいに流れて広がる文章世界だ。あっちで跳ね、こっちでこぼれながら無数の支流を発生させ、自在に、けれど自然の地形にそって――。
この美しい本にはたびたび庄野潤三がでてくるのだが、著者が彼の作品について言う、「それが決して、一人だけのものではないからでしょう」はまさに水脈が存在するしるしだし、最終章における犀星から庄野への流れ(犀川からミシシッピ・リバーへ)といい、犀星に戻って本全体をしめくくる「山水のやうな味のする水」という一文といい、気がつけばあたりはいちめん清烈な水、という場所に読者は運ばれていて、船頭たる著者の見事なオールさばきに舌をまくことになる。
ところで、この本のなかに、「何となく、一行一行、蟹の味がするようでしょう」という文章があり、確かにその通りの(蟹の味がするような)ものが読めるのだが、私にはその事実より、「何となく、一行一行、蟹の味がするようでしょう」という文章そのものの方が驚きだった。この味わい能力! 凡人には書けない一文だと思う。
(えくに・かおり 作家)