書評

2022年12月号掲載

言語の達人が押しまくる中国語のツボ

橋本陽介『中国語は不思議―「近くて遠い言語」の謎を解く―』(新潮選書)

高野秀行

対象書籍名:『中国語は不思議―「近くて遠い言語」の謎を解く―』(新潮選書)
対象著者:橋本陽介
対象書籍ISBN:978-4-10-603892-1

 橋本陽介さんは言語の達人である。英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、ロシア語、中国語、韓国語を習得し、各言語で書かれた文学を読み漁り研究してきた。そればかりか日本語と言語学にも通じていて、『日本語の謎を解く―最新言語学Q&A―』(新潮選書)を刊行し、読書界で高く評価された。漢文と古文もお手の物。それで今年ようやく四十歳なんて、年齢詐称じゃないかと思うほどだ。
 私は十年以上前から個人的に橋本さんと親交があり、自分の著書でもお手伝いいただいたこともあるからよく知っているのだが、彼の知的興味の幅の広さと突っ込んでいく深さは驚異的だ。私たちはときどき居酒屋で言語や世界文学の話を肴に一杯やるが、橋本さんはいつも何か泥の中からヘンな石や虫を発見した子供のように嬉しそうな顔で喋っている。心底、言語世界が好きなんだと思う。ただ一つ残念なのは、酒を飲みながらだと彼がどんな話をしていたのか後でよく思い出せないことだ。それゆえ、このように本にしてくれると大変ありがたい。
 今回は橋本さんが最も得意とする中国語についてだ。彼によれば、本書は「普通の学習書には書いていない裏側の話をする本である」。さらに「中国語学習のひょっとしたら押さなくてもよいツボをひたすら押していく。(中略)中国語をまだ学んでいない人はもちろん(中略)上級者になっている人も、誰が読んでも必ず新しい発見がある」という。要するに、言語の達人である橋本さんが中国語の整体師みたいな役割を担い、誰が読んでも「ああ、そこ、イイ!」と快感を得てしまうようなツボを押してくれるのである。
 私は中国語をある程度学習し、中国や台湾をけっこう旅したことのある「中級者」だが、初っ端の簡体字とピンインの話だけでもツボだった。中国(大陸)の漢字と日本語の漢字は形がけっこう異なる。中国語のそれは簡体字と呼ばれる。例えば、「過」「長」「電」は簡体字では「过」「长」「电」となる。また、中国語は日本語とは全くちがう系統の言語なので、ピンインというローマ字の発音記号で発音を表している。「高野」はgao ye(ガオイェ)となる。ここまでは普通の学習書に書かれているが、本書ではなぜ、どのように簡体字やピンインが作られたのかという「裏話」を教えてくれる。
 それによれば、なんと、中国共産党は当初、マルクス主義史観に従い、古代の漢字をやめて、新しくて合理的なローマ字に変えてしまおうと思ったという。でも、一気に漢字を廃止するのは過激すぎるので、段階的に簡略化していく計画を立てた。そうして作られたのが今の簡体字なのだ。つまり「暫定的措置」だったわけである。実際、簡体字を制定した二十~三十年後には、さらに簡略化された漢字に置き換えることが想定されていた。本書にその「第二次簡体字」とも呼ぶべき奇妙奇天烈な文字が掲載されており、見ていると、なんだか『新世紀エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」みたいな、支配者の身勝手な理想主義ぶりを感じてしまう。結局、こんな計画は頓挫し、目標であったローマ字化は発音記号として残った……、と大雑把にいえばこういうことらしい。
 中国語の文法の話も私には効いた。中国語は品詞の区別が少ない。「认真」は「まじめな」という形容詞だが、「まじめさ」という名詞にもなれば、動詞とくっつけると「まじめに」という副詞にもなる。「科学」という単語も日本語では名詞以外にありえないが、中国語では「很科学(とても科学的だ)」みたいに形容詞としても使える。私自身、そのように中国語を話していたが、あらためてここで指摘されるまで気づかなかった。たしかに、こんなに品詞の壁がゆるい言語は私も他に知らない。中国語は比較言語学的にはシナ・チベット語族に属すとされているが、これと同じ語族であるビルマ語やゾンカ語(ブータンの国語)にはそんな特徴はない。
 後半から終盤にかけては橋本さんのギアが一段グイッとあがる。この辺は彼の研究対象のど真ん中だからだ。そしてここが私的にはいちばん気持ちいいところだった。中国語は基本的にはSVO(主語・動詞・目的語)の文型だとされているが、V(動詞)の前後にはいろいろなものが入って構わないとか、主語が変わっても一つの文として延々と続く「流水文」とか、かつて飲みながら橋本さんに聞いていたが、あらためて目から鱗であった。中国語は漢字という強烈に自己主張する文字を持ちつつ、音声がひじょうに重要という言語なので、他の言語にはない個性が生じることも理解できた。もっと言えば、この中国語の本を通して、人類の言語の普遍的な部分も感じ取れてしまった。
 中国語をまだ学習していない人は「ちょっと学んでみたい」と思うだろうし、学習している人は「へえ、そうなんだ!」と面白くなるだろうし、かつて学習したことのある人は「もう一度勉強しなおしたい」と思うはずだ。人それぞれにちがうツボが押される本書。果たしてどのツボが気持ちよくなるのか、ぜひ試していただきたいと思う。


 (たかの・ひでゆき ノンフィクション作家)

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