書評
2023年1月号掲載
筒井康隆・蓮實重彦『笑犬楼VS.偽伯爵』特別書評
滋味
八十八歳の作家と八十六歳の批評家が胸襟を開いた真率きわまる対話、無類の相互批評、芳醇絶佳な往復書簡――三部からなる豪奢な一冊、愈々刊行!
対象書籍名:『笑犬楼vs.偽伯爵』
対象著者:筒井康隆・蓮實重彦
対象書籍ISBN:978-4-10-314535-6
筒井康隆と蓮實重彦、そう書きだしただけで、最初はごくわずかな重さしかなかったはずのこの紙が、突然に重量を持つものに変化する心地となる。桜、という言葉の背後に、さまざまな言葉や感情の歴史があるのとそれは同じで、二人の書いてきたいくつもの作品の歴史の重みが、二人の名前の背後にずっしりとひかえているからである。
かれらの輝かしい仕事の足跡がその心地をさそうのではあるけれど、かといって筒井康隆も蓮實重彦も、「大家」という言葉が一般に与える印象をもつ存在ともまた異なるのではないかと、わたしは思っている。功成り名をとげ、高みに君臨し、地位を固める、という「大家」的な位置に、おそらく二人はとどまることをよしとしない。大家? ちゃんちゃらおかしいぜ、と、言葉には出さずとも、その心中で笑いとばしているような気がしてならない。世の杓子定規な決まりごとを常に笑いのめしてきた筒井康隆は当然そうであると予想できるにしても、蓮實重彦もそうだと感じるのは、おそらく『伯爵夫人』を読んだからだ。なんと愉快な小説だろうと、初読の時に思った。いかにも愉快なふうに書いてあるのではないのに、読んでいるうちにくすくす笑いだしてしまう。作中の青年が可愛くてならなくなってくる。「伯爵夫人」に肩入れしたくなる。以前『伯爵夫人』について、「小説とは、うろんなもの。その言葉どおりの小説を読んだな、と感じました。意味がないのにみっしりと何かがつまっていて、そのつまったものを分解してゆこうとしても割り切れなくて、あれあれっと思っているうちに雪のように溶けてしまって、あれあれあれっと驚いていると、いつの間にかまた形をもってしっかりと目の前にあらわれて」と、わたしは書いたことがあるのだが、このような感想がなぜあらわれるのかということの理由の一端を、本書の、二人による往復書簡は教えてくれる。
「伯爵夫人によって急所を握られた男性が一様に『ぷへー』と言って眼をまわす繰り返しのギャグに驚きました。勿論映画にお詳しい蓮實さんがパラマウント・ギャグをご存知なのは当然なのですが」と、筒井康隆は書く。パラマウント・ギャグの何たるかには詳しくないのだが、若いころ京橋のフィルムセンターで見入ったマルクス兄弟の映画を遠く思いだしてみれば、『伯爵夫人』と一見つながらないようにみえながら、実はそこには何かの紐帯があることが理解できるような気分になってくるのである。
個人的な話になるが、筒井康隆と蓮實重彦は、わたしの両親と年齢がごく近い。書簡の中には、高校時代に二人が口ずさんだといういくつかの楽しくも不敬な替え歌が出てくるが、まさにその中のいくつかに類似したものを、幼いころ、父母の口から直接聞いたことがある。そういえば、父は高校生のころ、書簡にも登場する三木鶏郎の冗談工房に出入りしてたまにギャグを採用されていたのだったが、コント作家になる夢はあきらめて地道に就職し家庭を持ってからも、酔っぱらうと地口を多用する自作のコントを披露したものだった。先日久しぶりに、存命ならばこちらも二人と年の近い滝田ゆうの『寺島町奇譚』を読み返したのだが、ここにもたくさんの替え歌が、ある時は皮肉に可笑しく、ある時は哀切に、登場する。駄洒落、ではなく、地口。あるいは、語りの繰り返しによって語り自体の関節をはずすような可笑しみをかもしだすこと。そういった言葉の文化を、漫才や落語の分野ではともかく、小説分野で活かすのは、大変に難しいと思うのだが、筒井康隆も蓮實重彦も難なくやってのける。その理由も、二人の往復書簡を読むと、ゆるやかにときほぐされて示されてゆくように感じるのである。
芯を保ちつつ柔らかな誠をつくした書簡を読んでいるうちに、自分とは育った時代も環境も違うのに、二人の巨人がいやに親しい存在に思えてしまい、往復書簡の話から始めてしまったが、冒頭の対談、「同時代の大江健三郎」について、まずは筆を進めるべきだった。
大江健三郎よりも一歳年長の筒井康隆、一歳年若い蓮實重彦による対談は、実のところ「この二人が気脈を通じて語りあう」不思議を、自然に、また優しく、晴らしてくれる。ここには、二人と同時代の人間である大江健三郎という作家に対する敬意と、共に長い時間書き続けてきたキャリアを持つプロフェッショナルとしての分析が、まっすぐにあらわれている。大江健三郎について書かれた文章は多く、むろんそのすべてを知っているわけではないが、この対談ほど「大江健三郎という人間」と「大江健三郎という作家」を、対立させずまた混濁させずに論じたものを、わたしは知らない。こんなふうに論じてもらえる作家は、なんと幸福なのだろう。このように論じるには二人の長きにわたっての仕事の積み重ねが必要であり、さらにいえば、継続的な柔軟さをたもちつづけていることも必要だったにちがいない。そのような思いをいだきつつ、対談の次に続く、筒井康隆による『伯爵夫人』論、そして蓮實重彦による『時をかける少女』論を重ねて読めば、「同時代」ということの持つ滋味がますます深まることだろう。
なんとぜいたくで楽しい本を作ってくれたのかと、心から嬉しく思う。重く感じられた紙は、いつの間にかその重量をなくし、どこからかワルツやクイックステップを踏むかろやかな靴音が聞こえる心地となってくるのである。
(かわかみ・ひろみ 作家)