書評
2023年2月号掲載
「クソおやじ」へのオマージュ
高橋秀実『おやじはニーチェ―認知症の父と過ごした436日―』
対象書籍名:『おやじはニーチェ―認知症の父と過ごした436日―』
対象著者:高橋秀実
対象書籍ISBN:978-4-10-473807-6
この際、はっきり言わせていただくと、義父・高橋昭二は小男で超小心者、そして腹が立つほど小賢しく、小回りがきき、小まめ、とにかく小さかった。
12年前、夫・高橋秀実が小林秀雄賞を受賞した時のこと。よろこび勇んで両親を祝賀パーティーに招待したのだが、父は「なんで、俺が行かなきゃいけないんだ!」と大暴れ、行く行かないで揉めた。結局、母は「私たちはいいから」と父に従った。父を立てたわけじゃない。息子のお祝いごとにケチをつけたくなかったのだろう。うつむきながら、招待状を撫でていた母の姿を私は忘れられない。
思い返せば、あの時、父はもう認知症を患っていたのかもしれない。専門医に診てもらおうよと幾度も勧めたが、母は「大丈夫」の一点張り。息子ましてや嫁に迷惑をかけたくない一心だったのだろう。確かに日常生活には支障がないようだったし、私たちも母の意見に添ったというよりは、見て見ぬふりをしていたのだと思う。母はそれこそド根性で頑張っていた。
しかし5年前、ついにこと切れた。母は大動脈解離で急逝したのだ。
私は悔いた。もっと積極的に母をサポートするべきだった。実母を58歳で亡くした私を義母は支えてくれた。「お母さん」と呼べる人がいることがどんなにありがたいことか……。胸をかきむしられるような思いに駆られていたら、「ふんふんふ~ん」と鼻歌まじりに義父が「そろそろ6時だな」とダイニングテーブルに座った。食事の時間だと言うのだ。まったく、お前もか? 私の実父もそうだった。実母に先立たれた時、「ごはん、どうすればいいんだ」とのたまった。私はぶちキレ、スト(たった1日だけど)を敢行。見かねた夫が食事をつくったのだが、口に合わなかったらしく、食べ残した。実父が愛した実母の味は娘の私にしかつくれない。ざまあみろ! 母たちの呪いを受けるがいい、と私は悶々としていた。
私の気持ちを察したのか、夫が「お父さん、ストアに行こうか? 今日は何か晩ごはん買ってこよう」と声をかけた。「いいね、いいね」とうれしそうな義父。義母の不在をまったく気にとめず、こうして長男夫婦と同居することにも違和感を抱いていないようだった。やっぱり、ボケている。
なぜか、息子である夫も心なしか嬉々としていた。男同士の連帯が安らぐのか、やたらつるむ。お調子者の血を受け継いでいるのか、「エミちゃんは、ムリしないで。僕がごはんもつくるから」と宣言。家事はごはんだけじゃないけどね、まっ、そう言うなら、頑張って! とりあえず、父の世話は夫に任せることにした。私は2階に上がって、礼服の汚れをチェックしたり、母の四十九日法要の準備にとりかかった。一息つこうかなと思っていたら、「エミちゃん、塩はどこ? 菜箸はどこ?」などと夫がいちいちたずねる。つい今しがた、台所の収納について説明したばかりなのに、このありさまだ。
しかし、認知症と思われる父の介護はひとりではできない。夫のやる気を見守ることにした。不出来ながら、彼はかいがいしく父を看た。毎日、隣に寝て、朝も一緒に起きて、ひとしきりトーク。話はいつも同じ内容のようで、そうでもない。さすが、ノンフィクション作家らしく、父の言葉を逐一メモし、耳を傾けた。20歳で家を出て以来、こんなに父と息子がふたりっきりで語り合うことがあっただろうか。
やがて、夫は父の語り口に哲学者ニーチェを重ねた。知性というのは内容というより語り口なのかもしれない。認知症の介護は哲学の道に通じているという。認知症の症状のひとつに「取り繕い」という行為があるらしいが、父はそのテクニックが上級であった。内容は明らかにウソだが、特に差し障りがない。ただのウソつきとみるか見事な演者とみるか。やっぱり父は正常であると私は感じた。小賢しさが衰えていない。油断ならない、クソおやじ。
本書にあるように、家父長制が認知症問題を生み出したと言えるかもしれないが、父はその典型だった。甘え体質の男を庇護してきた女性たちにも非がある。でも、女だから、妻だから、嫁だから、そういったイデオロギーに囚われ、私は家事や介護を頑張っているのではない。愛しているのだ、夫を父たちを。ニーチェが言うように、愛は野蛮でパワフル。これから覚悟しろよ、ヒデミネ。
本書は、男の男による男のための認知症介護の手引き。あくまで個人的な記録ですが、介護でお悩みの時に、是非参考にしていただければと存じます。
(たかはし・えみ 編集者)