書評

2023年2月号掲載

あれからの十年を描く

佐藤厚志『荒地の家族』

木村朗子

対象書籍名:『荒地の家族』
対象著者:佐藤厚志
対象書籍ISBN:978-4-10-354112-7

 小説の舞台は宮城県、仙台より南に位置する亘理(わたり)町。福島県から流れ込んだ長大な阿武隈川が内側へと蛇行して海へとたどり着くところだ。ここは東日本大震災での津波の被害があった場所だが、小説のことばとしてそれは「津波」と名指されることがない。「災厄」「天災」「海の膨張」と表現されていて、この小説がニュースで知るような、たとえば津波で家財を失い、家族を失った被災者が再生していくなどの、ありがちな被災の物語を描くつもりがないことがわかる。
 そもそも東日本大震災から十年が過ぎた2021年の3月には世界はコロナ禍に見舞われていたのである。あの東日本大震災を経験したあとでなお、またしても大規模な「災厄」が起こるとは思いもよらなかったことだ。しかも小説が描く亘理町は、2019年の大型台風の被害で、阿武隈川の氾濫によるさらなる水没を経験した土地でもある。そうしたあれからの「災厄」の数々をその外にいる者はいったいどこまで記憶しているだろうか。東日本大震災という大きな被災の記憶は、その後のあらゆる「災厄」の記憶をむしろ覆い隠してしまっているのではないだろうか。
『荒地の家族』の語りの現在は、「災厄から十年以上経」た、『新潮』2022年12月号の掲載時に近い頃である。小説の最終場面は2019年の台風被害の時点である。亘理の浜の景色は次のようにある。
  白くすべすべした無機質な防潮堤はさざ波立った人の心の様をまざまざと表す。災厄直後の亘理の浜に、防潮堤より他に建設するものはなかった。限界まで巨大に設計された防潮堤は、ついこの間経験したばかりの恐怖の具現そのものだった。海からやってくるものの強大さをいわば常時示すように防潮堤は海と陸をどこまでも断絶して走っていた。
 あのときの恐怖感。それが巨大な防潮堤となって立っている。そこには、もしいま復興計画がなされたなら、こんなにも大きな防潮堤がたてられただろうかという疑問もうかがえる。復興とはなんだろう。あれからの十年とはどんな時間だったのだろう。
『荒地の家族』の主人公の坂井(さかい)祐治(ゆうじ)は、造園業のひとり親方として独立した直後に災厄に見舞われた。それから二年後には息子の啓太(けいた)を残して、妻の晴海(はるみ)をインフルエンザで失っている。妻の死から六年後、友人の紹介で知り合った知加子(ちかこ)と結婚するも流産したことをきっかけに一方的に離婚されてしまっていた。それらは確かに次々と襲ってきた「災厄」に違いないのだが、東日本大震災の津波の被災とは直接には関係がないことになる。しかし人の人生はつながっているのである。あれとこれとは別の話というわけにはいかない。だから祐治は「元の生活に戻りたいと人が言う時の「元」とはいつの時点か」と思わずにはいられないのだ。
 小中学校の同年であった近所に住まう明夫(あきお)は、妻と娘を「海の膨張に巻き込まれ」て失くしている。明夫の酒癖の悪さに愛想を尽かし実家に戻って行った直後のことだった。明夫は大学時代、祐治の妻となった晴海のことが好きだったのである。それを奪うようなかたちで結婚したことから明夫にとって祐治は成功した男にみえる。だから祐治の再婚相手が出て行ってしまったときいて、思わず「お前でもうまくいかねえのか」とつぶやく。そこで明夫がふと口にした「報いだよ」ということば。祐治はそれを「苦しむのは自業自得で、晴海が死んだのも、知加子の腹の赤子が死んだのもみんな自分のせいである気がした」と受けている。しかし小説の終盤、仕事は続かず、なにをやっても上手くいかないと感じている明夫は「捨て鉢になって一刻も早くこの世から逃れたい」というように自暴自棄を繰り返す。「報い」だというのは明夫自身へむけたことばだったのだと祐治はふいに理解できるようになる。では明夫の悲劇と災厄との因果関係はどこにあるのだろう。ただそれは「報いだ」と自分を責めてしまうような時を生き続けることそのものにある。
 海を隠すように海岸線沿いに建設された防潮堤、山をつぶして嵩上げした土地、空き地のままの海辺の土地。復興したはずの亘理は「宅地から海のほうへ抜けると、そこは荒地ともいうべき広大な景色が北へ南へどこまでも続いていた」とあって、いまだ「荒地」なのである。十年をかけて行われた復興とはいったい何だったのか。私たちが想像もしていなかった時間がここには描かれている。


 (きむら・さえこ 津田塾大学教授)

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