対談・鼎談
2023年2月号掲載
モーテン・H・クリスチャンセン、ニック・チェイター
『言語はこうして生まれる―「即興する脳」とジェスチャーゲーム―』刊行記念対談
普段の会話こそ究極のフリースタイル!
いとうせいこう × 宇多丸
「言語はジェスチャーゲームである」という画期的な見方を提示して話題になっている『言語はこうして生まれる』。
日本語ラップの先駆けであり、今も新たな表現に挑戦し続けるいとうせいこうさんと、ライムスターのラッパーで、ラジオパーソナリティとしても大活躍中の宇多丸さんが、本書をテーマに、ラップや和歌、ラジオまで縦横に語り合いました。
対象書籍名:『言語はこうして生まれる―「即興する脳」とジェスチャーゲーム―』
対象著者:モーテン・H・クリスチャンセン、ニック・チェイター/塩原通緒訳
対象書籍ISBN:978-4-10-507311-4
宇多丸 この本を読んだ時、いとうさんと話したいと思ったんです。
いとう うん。言語というと、ある言葉の「A」というイメージをそのまま運んで、相手がそれを受け取るという風に思ってしまう。でも、実際のコミュニケーションはそんなことはなくて、実は短波放送みたいにすごく雑多なノイズだらけの音の中から正しい歌詞を見出すみたいな作業をしているわけだよね。
宇多丸 そうです。さぐりさぐりで、なんとか工夫しながら、ジェスチャーゲームのようにお互いにメッセージを伝えていく……それが言語というものだ、というのが本書の論旨です。
いとう ただ、ジェスチャーゲームというのは、聞いてる側が「近い!」とか「そうそう!」とか反応するから軌道修正ができるわけじゃない。僕がこの本でちょっと足りないなと思ったのは、聞いてる立場の人たちがあまり見えてこなかったこと。かつて柄谷行人が指摘したように、語る立場と聞く立場があった時に、重要なのは聞く立場が理解するかどうかであって、語る立場には実は何の権利もない。「わからない」と言われたらおしまいなわけだから。そのことをジェスチャーゲームの比喩の中に導入しとかなきゃいけないと思った。
宇多丸 なるほど。僕はその「聞く立場」の話も込みで、ジェスチャーゲームのメタファーを理解していたのかもしれません。例えばこの本に繰り返し出てくるのは、相手に何かを伝えるときに大事なのは、「相手が何を知らないか」をこっちが類推することだと。つまりやはり、受け手がキャッチできる情報を投げてナンボ、という話ではある。また、これはすごく自分の実感と通じる部分だったんですが、会話って、実際こうやってポンポン言葉のやり取りをしてますけど、相手の発した言葉を本当に全部きちんと咀嚼してから返事してたら、こんなスピードにはならない。つまり相手の話を大づかみして、途中ですでに返答を考えだしているわけですよね。だから、基本すごく雑なコミュニケーションを我々は普段しているんだけども、そのやり取りの繰り返しの中に、互いの共通認識のようなものができてくる。
いとう 要するに35%ぐらい伝わっていれば会話は成り立つ的なことでもあるよね。
宇多丸 人間の認識能力的にも、リアルタイムで聞いた言葉は、文字みたいには記憶できなくて、どんどん忘れていっちゃう。だから、今おっしゃったように35%ぐらいをぼんやり薄づかみしてやり取りするのが、言語コミュニケーション。しかもそれは、「今、この場」でコミュニケーションをとる必要がある両者間で、「その都度」即興的に形成されてゆくものなのだ、ということ。それがすごく腑に落ちたんです。
詠嘆とフロー
いとう 著者はデンマーク人とイギリス人だけど、英語圏で活躍している人たちだよね。英語は大づかみしやすい言語とも言える。「私はそう思わない、なぜならば」という語順だから。でも日本語は「これこれこういうわけで、違うと思うんだよね」というように結論が最後につく言語。我々ラッパーが一番最初に困った日本語の特徴でもあるんだけど。
宇多丸 そうでしたね。
いとう さらに日本語は膠着語で、ほとんど「だ」とか「じゃない」で終わるから、韻が踏みにくい。それで「そうは思わない、俺は」と倒置法を使うようになった。ちなみに、この倒置法はほんの10年ちょっと前までは、ライブでは観客に伝わらなかった。だけどこの頃は伝わるようになってる。日本語を聞く能力が変わったんだよ。
宇多丸 それと、日本語は文語的なものと口語的なものの乖離が激しいじゃないですか。口語のふんわりした構造に対して、文語は、漢語的表現の枠をかっちり作って、あえてハードルを高くすることで社会階層を強化する、言ってみれば「お上」の論理から形成されたものでしょう。この本を読んで、そういう構造も僕の中では改めてクリアになった。
いとう その話を聞いて思い出したのは、文語の中の膠着語の話。文語では「〇〇なり」とか「〇〇けり」とか「〇〇ならん」とか言うわけじゃない。それって古文で教わったと思うけど、全部「詠嘆」って言われちゃうんだよね。「なり」と「けり」の細かい違いを教えてくれよって思うのに(笑)。
宇多丸 詠嘆ってファジーな言葉ですよね(笑)。
いとう もともとは英語のOhとかAhみたいなものが、文末にきちゃう言語だったんだよね。我々はその詠嘆が「だ」「である」で省略された近代以後にどういう面白い表現を考えるか。
宇多丸 日本語で喋ってると、終わらせ方が難しいというのは感じます。決まらないというか、バリエーションがないというか。ラップのときもそうですけど……僕は、普段のラジオはゲストやパートナーとの会話で進めますけど、映画評だけは一人で、しかも一度文字に起こしたものを、台本代わりにして喋ってるんです。それでもいつの間にか、やはり倒置が多くなるんですよね。「これは何とかなんですよ、誰々がこうしたから、この作品は」みたいな。リアルタイムで情報を詰め込もうとすると、日本語の語順を変えないとうまく伝わらない感じがある。
いとう やっぱり文の前半とか頭のところに結論を持ってきて強くしたくなるってことだと思うんだよね。
宇多丸 そうですね。それで、ここまで何の話をしてきたのか、という情報を改めて文の後ろに入れておく感じ。
いとう よくわかる。そして、それは小説の文ではできないことなんだよね。倒置による詠嘆を入れたら、語り手は誰だということになってくるから。語り手がいないかのように、嘘をつかなきゃいけないのが近代以降の小説。でもやっぱり書いていると、本当は詠嘆入れたいわけよ。それでこの頃、僕が頭の中で転がしてるのは能の謡(うたい)。散文じゃない。
宇多丸 文章で、ラップで言う「フロー」(※1)が伝えられればいいのに、ってことですかね。
いとう そういうこと。でも長い韻文書いても受け取る側も大変だろうし、短いほうがいいってなると詩になっていく。今腕っこきのメンバーでバンド組んで、日本語ラップから即興的なポエトリーリーディングのほうにグーッといってることともつながるんだよね。一曲の中で、俳句ひとつ読んで黙っててもいいわけだから。ダブサウンドでワンワン飛ばしてもらって。
フリースタイルと連歌
宇多丸 いとうさんは、『フリースタイルダンジョン』の審査員をずっと務められてきて、若い子のフリースタイルバトルを、僕なんかよりいっぱい見てるじゃないですか。
いとう 見てる見てる。
宇多丸 ラップの仕方や内容に、何か変化って感じられますか?
いとう 高校生とか中学生くらいの子が、あまりにうまい入り、スタイル、切り返しとか、韻の踏み方とかをしてくるわけじゃないですか。もう完全に日本語というもののエンジンが変わったなっていう感じがある。いま彼らは、現実に会話してるときにはない脳の働きでやってるわけだから。サイファー(※2)で常に自分たちを鍛え、リズムの中でどれくらい韻が踏めるかっていうことを頭の中に叩き込み、言葉を喋っていく。それから相手の論理をどういうふうにいなすのか、ひっくり返すのか、脅すのかっていうようなことも同時にやっていく。
宇多丸 それこそ通常の会話以上に相手の言葉をしっかり聞かないといけないし、聞くのと出すのをほぼ同時に進めなきゃならないんだから、なかなか大変。
いとう そうなんだよ。だからそういう意味では、この本が言うようなノイズ性はほぼない。普段の会話の方がノイズだらけでしょう。
宇多丸 たぶんフリースタイルラップは、とは言え偶数小節単位のケツで韻を踏むとかオチをつけるとか、意外と決まりごとが多いというか、あくまで音楽的なルールの枠内で競う一種の「スポーツ」でもあるから、ひょっとしたらそこで何か一箇所、考えなくても済むスポットのようなものができるのかもしれない、とも思うんですけど。
いとう 脳の中に空いてる部分があって、そこで計算してるっていうことかな。それはあると思う。多分平安の歌人たちも、同じことをやってたと思うよ。たぶん音楽的にはありえないBPM(※3)32とかで、ものすごいゆっくり「ひさかたのー」って。絶対次に「光」が出てくるわけだから、みんながそれを共有して「何の光なわけ?」って映像的なものをゆっくり楽しむ。そこで「のどけき春の日に」とか歌うわけよね。その時間の中で、中国の漢詩から何から全部ワーッと共有してる。そしてオチで詠み手だけが言えることがドンッて出てくる。そうするとやっぱり「おー」って言ったはず。コールアンドレスポンスが歌の会の中でなかったわけがない。
宇多丸 たしかに!
いとう 五七五の場合は、「何何の」「うん」「何何何の」「う」「何何の」「うん」と、休符が一拍半拍一拍になっている。実はこの休符がすごく重要で、これはレスポンスのための休符なんだっていうのが俺の考えなのよ。「何何の」って言ったら「おっ」とか「うん」、「どうする」と合いの手を入れるコミュニケーションがあったと考えなければ、あの休符が生きないよね。五七、七五は日本語の伝統なんだっていう人は多いけど、なんでその伝統がエンジンとして素晴らしかったかは、やっぱり聞き手の側から考える必要があると思うわけ。
宇多丸 例えば祭りばやしが鳴ってりゃ、「よいしょっ!」とか「もういっちょ!」とか、自分もついやりたくなっちゃう感じ。普段の会話でも、それこそ五七五的ないいリズムで来ていれば、「それからどした!」って合いの手を入れたくなる。
いとう それなのよ。僕と宇多丸の世代は、いかにその休符をつぶして音頭に聞こえさせないかってことが本当に重要だった。「何とかの」「よいしょ」ってラップやったら、なんだよそれ民謡じゃねえかって言われちゃうから、絶対にやってはいけなかった。でも今はトラップっていう音楽が出てきて。
トラップと地元
宇多丸 トラップは完全に「それからどした!」の世界ですもんね。なんならそっちがメインなくらい。
いとう そうそう。単独でラップしない。「俺が持ってる車」って言ったら、仲間たちが「超かっこいいぜ」とエンジン音の真似を出してくるとかさ。今若い子に聞いても、「休符怖くないっすね」って言うもんね。それがもう一番変わったことですよ、この数十年の間に。逆に言うと民謡はいったん忘れ去られたんだね。だからこそ今、民謡クルセイダーズとか俚謡山脈がかっこよく聞こえる。ひとめぐりしたんだよ。
宇多丸 僕らはその土着的なリズムからいかに脱するか、海外の先進的な文化をどう日本に合うかたちで根付かせるかっていうことに挑んでいた世代。だから、どちらかと言えば、さっきも出た文語的な発想のラップだったとは言えるかもしれない。ただ、文明開化のためには、いったんはそういうプロセスを経るしかなかったんですよね。
いとう そうね。それが今は、USの奴らもある意味、土着的な音楽をやってくるから。ブラックピープルの中にあるラテン出自であったりする感覚が出てきた。トラップを聞いたときは、完全にジャマイカの乗り方じゃん、レゲエセンスじゃんと思った。有色人種たちのリズム共同体みたいなもんがあるとさえ僕には見えちゃう。日本の民謡もその中にある。
宇多丸 確かに、ヒップホップの中心地がどんどん南部の方に行って、日本人の目から見ても、言っちゃえば田舎っぽい、泥臭いものになっていって。でも、それがどんどんシーンを席巻していった。
いとう 最初の頃のラップって都会のものというイメージだったじゃない。それがものすごく小さな都会になっていくと、結局田舎の中のちょっとかっこいい人っていうふうになるわけよ。それが都会っぽいということだから。日本にもあるような「いや、地元でまったりっすよ」の思想が世界のヒップホップを変えて、日本でもそういうヤンキーの子たちがヒップホップしか聞かないみたいなことになっていくのは当然のこと。なんだけど、そのときに宇多丸とか俺はどこにいればいいんだっていう話(笑)。位置取りの問題だよ、これは。
宇多丸 たしかにそこは考えちゃいますけど。ただ、この本にあるように、その人がその時に立っているコミュニケーション空間の中で、刻々と生成されてゆくものこそが言語なのだとしたら、僕はある種最初から「やっぱり地元」な皆さんと同一の場所にはいないのだから、それがトレンドだからというだけで追いかけてみたところで、フェイクなものにしかならないわけで。あと、僕はもともとの思考自体が文語的なタイプでもある。書物から得た言語体系が自分のベースだから、どこか「文章みたいなラップ」を書きたいという欲望が、僕の中にはすごくあるんです。それがホントに僕なりの「リアルな」言語体系なんだから、仕方ないというか。
いとう 例えば読んだ本とか誰かと話したこととか、ネットの中で出会った文章とか、そういうものが雑多に入ってくるから、ラップはその人が何を吸収したかってことがもろだしになっちゃうわけじゃん。
宇多丸 だから、結局は自分自身のリアルを追求するしかない、ということなんですけど。この本を読んでそれが改めて納得できた気もします。仮にそれがストリート的なヘッズの感覚からは乖離していたとしても、自分なりの言語空間というのは誰にも必ずあるはずだ、ということなんだから。
いとう だから俺がいまダブポエトリーをやるバンドにいて、あえて詩をラップ的には乗せずに、しかし大きなリズムを感じて朗読してるけど、それは自分が今のJラップの中にいなくていいなっていう気持ちがあるんだよね。突き詰めたら、ジャンルごと変わった。
宇多丸 うん。わかります。
いとう すげー楽だよ。むしろ俺たち「なりけり」って言っちゃった方がいいぐらいの感じじゃん。宇多丸も俺も平安時代の人みたいに思われてると思うよ、若い子たちには(笑)。
宇多丸 どっちにしろ昔の人って思われてるんだから、ここまで行ったってバレねえよみたいな(笑)。
いとう そうだよ。俺が謡とかに行ってるのは、そこで学んだことの方が自分の音楽に生きるからでさ。それが俺にとっての現在なんだよ、今そのものなの。
相槌とBPM
宇多丸 本当にそれはそうですね。その意味では僕は、毎日ラジオに違う人が来て、違うトピックについて会話してるってこと自体、ぶっ通しでフリースタイルのバトルロイヤルやってるようなもんだよな、と思う部分もあって。当然そこにも、ラジオならではの言語体系というのが形成されていると思うんですが。
いとう でさ、俺も宇多丸のラジオよく聞いてるけど、その時に重要なのは、ゲストが喋りやすいように、どう相槌を打つかじゃん。
宇多丸 さっき言った「よいしょ!」ですね。
いとう そうなのよ。そこが実は喋ることとほぼ等しく重要なんだよね。「国境なき医師団」の取材で海外に行く前に、英語をブラッシュアップしようと思って知り合いが作った英語学校に通ったんだけど、そのときの第一科目が相槌だったんだよ、「バックチャネル」。それが実は言語において一番大事なんだって教わって。
宇多丸 ほー!
いとう 相槌の位置とか、I seeっていうのか、Ahaというのか、Sorry?ってもう一回聞き直すとかも含めて、ここができていると、英語が実はすごくできるようになるんです、と。
宇多丸 その教え方、やばいですね!
いとう そう、すごいでしょ。日本語使ってラジオで喋るのも当然一緒だよね。
宇多丸 あと、意外と重要だと思うのは、うしろで流れてるBGM。あれのBPMに、結構支配されるんですよ。
いとう わかるわー。それこそBGMが自分たちの思考よりゆっくりだと、もうイライラする。でも相手は素人だからそれに飲み込まれちゃってる。こっちがそれを早くしたいと思ったら、相槌を早く打つじゃん、絶対。
宇多丸 またそういうときの相槌が、こっちの思考ダダ漏れ状態で。客観的に聴いてるリスナーからは、「宇多丸、先走りやがって」と丸わかりになっちゃってると思います。
いとう しかたないよ。そうやって相手のBPMを上げるしかない、会話のDJとしては。
宇多丸 おっしゃる通りで、次第に相槌のBPMをアップして、時間内になんとか収める、みたいなのはやっぱりありますよね。
いとう そうでしょう。そこのところも含めて、このジェスチャーゲームというものを広げて考えるべきだと俺は思った。聞く側の相槌って、コミュニケーションを大きく支配してる。
宇多丸 そういうことですよね。
いとう この本の重要なところは、言語っていうものは常に文法を逸脱したり、言い間違いがあったり、切り所間違えていたり、そういうことが常に起こっている。その中から、どのぐらいあぶり出し的に意味の繋がりを見出しあうかという、非常にスリリングでクリエイティブなもので、つまり詩のやりとりに近いんだってことを彼らは言っているわけで、それはすごく面白いと思った。一番はね、私は喋るのが下手なんだよなとか、うまく伝わらないんだよなって思ってる人は確実に読むべきだよ。だってそれで当たり前なんだ、全員そうだよっていう。
宇多丸 より良い喋りとか、より良い言葉、より正しい喋り方があるわけじゃないってことですよね。
言語の変化
宇多丸 あと、この本の中で面白かったのは、最近、英語圏で「like」の使い方が変わってきてる、という話。日本語で言う「みたいな」とか「的な」といったフワッとした表現が、英語圏でも同じように使われるようになっているというのは、興味深いなと思いました。
いとう そうだね。地球のかなりの人が「きつい言い方は嫌だ」ってなったってことだね。
宇多丸 ニュアンスがより繊細になっているというか。
いとう 最初は言うに言われぬことで、文法と違うlikeを使った人がいて、それは他人からは間違えた言葉遣いと思われてた。でも違う聞き手にはすごく刺さる言葉で、刺さった人はそのまま使う。それが広がっていくっていう感じはすごくよくわかる。
宇多丸 その意味では絵文字も、今や完全に世界中に広まりましたけど、あれもまさに言葉にしがたい、もしくはしたくないニュアンスを記号化したもので……それはまさしく、さっきいとうさんがおっしゃっていた詠嘆の部分なのかもしれないですね。
いとう そう、詠嘆なんだよ。「よろしくお願いします」って書いてメール出したいけど、これなんかきつい言い方かなって。辞書的な意味ではきつくないけど、「締め切りです。よろしくお願いします」とか、コミュニケーションによってはものすごい脅しに聞こえる場合もある。だから「よろしくお願いします」のところに、手を合わせてお願いしている詠嘆をつけたくなる。
宇多丸 インターネットは現状、文字が主流のコミュニケーションだから、世界中の人が言ってみれば「これだと詠嘆が足りないな」と感じていて、だから絵文字が流行る、ということですよね。
いとう そういうことよね。チョムスキーの生成文法では詠嘆のこと考えてたか。昔のことで思い出せないけど。文章のよろしくお願いしますは同じだけど、対話においてのよろしくお願いしますには無限の色合いがついてるんだよ。いわば音楽が。つまり詠嘆が。
宇多丸 声色とか声の大きさとか、それが発される文脈によっても全然違いますもんね。
いとう つまりコミュニケーションはきわめて個別的であるっていうこと。あと俺はね、間違い自体を即興で作ってると考えていいと思うんだよね。そうすると言語というのは常に逸脱していったり、がっしり捕まえられることもあったりという、楽しい「間違い伝達ゲーム」ですよね。その個別の即興が面白いわけだから、フリースタイルバトルとは真逆のものかもしれないね。会話は韻踏まなくていいしさ。
宇多丸 つまり、普段の会話こそが、究極のフリースタイル!
いとう そうそう。逆に言えばね。
宇多丸 我々みんな即興の魔術師を常時やってるんだよ、っていうね。
いとう よくこれで伝わってきたね、今まで人類やってこれたねっていう。それぐらい奇跡的なことなんだっていうことだよ。
※1 フロー……歌い方、歌いまわし
※2 サイファー……複数人が円になり、即興でラップすること
※3 BPM……一分間の拍数
(いとうせいこう ラッパー/作家)
(うたまる ラッパー/ラジオパーソナリティ)