書評

2023年2月号掲載

ノストラダムス以上!

中島岳志『テロルの原点―安田善次郎暗殺事件―』

片山杜秀

対象書籍名:『テロルの原点―安田善次郎暗殺事件―』(新潮文庫)
対象著者:中島岳志
対象書籍ISBN:978-4-10-136573-2

 2022年7月26日、秋葉原通り魔事件の犯人、加藤智大(かとうともひろ)死刑囚の刑が執行された。トラックを運転してわざと人々を撥ね、車から降りてナイフでまた人々を刺して回る。2008年6月8日の午後0時台の出来事。日曜日だった。秋葉原は群衆であふれていた。死者7人、負傷者10人。まさに白昼の惨劇。著者はこの事件に猛烈に喚起された。本書が生まれた。2009年の秋のことである。といっても秋葉原の事件や犯人のドキュメンタリーか評論か研究というものではない。今回の文庫化に当たって、正題が『テロルの原点』と変じ、副題に「安田善次郎暗殺事件」と添えられたが、14年前の原題は『朝日平吾(あさひへいご)の鬱屈(うっくつ)』だった。加藤智大から朝日平吾を思い、今後のテロルの時代を予見する。著者の想像力が爆発したのだ。
 そう、イマジネーションに衝き動かされないと、加藤智大から朝日平吾にはつながりにくいだろう。秋葉原通り魔事件は通り魔と言われるくらいで、いわゆる無差別殺傷である。しかも被害者が大人数というところに特徴がある。そのあたりに目を奪われつつ、このケースを日本近代の歴史の中の事例と比較しようとすれば、1921年6月3日に東京の大久保・早稲田界隈で夜中の短時間に一六人を殺傷した李判能(りはんのう)事件や、1938年5月21日に岡山県苫田(とまた)郡西加茂村で都井睦雄(といむつお)の起こした「津山三十人殺し」が思い出されるのではあるまいか。ところが著者は加藤智大を朝日平吾と対(つい)にした。繰り返せばこのアイデアは尋常でない。だって、朝日平吾は安田善次郎という特定の標的を絞り込んで、彼の大磯の邸宅に乗り込み、安田ひとりを倒して、そこで事件は完結しているのだから。1921年9月28日に起きた。無差別複数か、差別単数か。通り魔事件か、暗殺事件か。犯罪の外形としてまるで違う。それなのに著者は、加藤に他の誰よりも朝日を思った。なぜだろうか。本書の原題が示している。キイワードは「鬱屈」。著者が本文中で頻用する類語としては「生きづらさ」もある。「生きづらさ」をどうしても払いのけられず、「鬱屈」が深まってゆく。そういう精神のありようにおいて、朝日と加藤は極めて同型的である。出来事の外形が問題なのではない。著者の見立てであろう。
 藤澤利喜太郎(ふじさわりきたろう)のことを思い出す。日本近代の大数学者のひとり。明治前半期にビスマルク時代のドイツ帝国に留学し、帝政打倒を目論む「破壊的社会主義者」が、必ずしも生まれながらに貧困な階層の出身でなく、むしろ、それなりに良い育ちなのに、途中で家が没落したり、学業に挫折したりした人々によって率いられがちであると気付いた。日本でも天皇制国家を安定させるためには社会福祉が肝要! 分け隔てを少しでも減らさなくては国にガタが来る! 藤澤は簡易保険制度作りなどを国家に提言した。朝日も加藤も結局、この藤澤のような視点から語れる典型的人物なのだと思う。初めはどちらかというと恵まれた部類の育ち方をしている。「生きやすさ」を知っているがゆえに「生きづらさ」を過剰に意識するようになる。人生の中途までそれなりにうまくいっていたのに、コースから外れてしまい、戻れない。際限なく「鬱屈」する。脱落と疎外とやり直し不能。そうした次元で語れる人生が増えれば増えるほど、無差別殺人も暗殺も起きやすくなるということだ。
 そういう「鬱屈」の果てに事件は起きる。しかも朝日も加藤も殺傷対象に個人的怨恨を抱いていないと考えて良い。そこがまた似ている。加藤は通り魔事件だからむろんそうであり、朝日も安田とは事件当日に初めて会った。李判能は勤務先の上司に憎しみの念を抱き、都井睦雄は周囲の村人の蔑視(べっし)に堪えがたいものを感じた。どちらも具体的な人間関係に起動されている。でも、朝日にとっての安田はあくまで一種の象徴であった。自分を含めた民衆の苦しみをよそに私利私欲に耽(ふけ)り、贅沢(ぜいたく)の限りを尽くす富豪。明治国家体制とは、一君万民を標榜し、父なる天皇のもとでの臣民の分け隔てなき幸せを保障してくれる仕掛けのはずではないか。しかるに、現実はそうなっていない。「君側(くんそく)の奸(かん)」が邪魔に入って、天皇のもとでの国民社会主義的共同体の実現を妨げているからだ。朝日の辿りついた論理だろう。「君側の奸」が政治家とか資本家とかの形態をとって蠢(うごめ)いている、朝日なりの仮想的・象徴的空間があり、その空間のせいで自分の人生は「鬱屈」しており、その空間にダメージを与えて一矢を報いるのが男子の本懐だ。生きる証だ。挫折者の誇りの回復だ。最後の自己実現だ。山縣有朋(やまがたありとも)から吉田茂まで、貴顕(きけん)の本宅や別荘が集中する大磯はそのような「君側の奸」の居場所として観念され、そこに住む欲深な安田善次郎が、朝日の象徴的標的として選ばれる。
 本書の「はじめに」が、朝日や安田のことではなく、象徴空間としての大磯から始まることには深甚(しんじん)な意味がある。それゆえに朝日の事件と加藤の事件は効果的に結び付けられる。なぜなら、加藤が事件を起こす場所は、秋葉原でなければならなかったからだ。現実に「生きづらさ」を覚え続けた加藤が、ネット上に最後の生き場所を求め、そこで疎外感を味わって、最終的に追い詰められる。朝日にとって「君側の奸」という一種の抽象人の象徴的代置空間が大磯になり得たように、「電脳空間」の象徴的代置空間となるのは秋葉原しかない。そこで幸せそうに日曜日を過ごしている人々が加藤の攻撃対象となる。無差別殺人か、特定個人を狙ったテロかの差異なんて、吹っ飛んでしまう。朝日は加藤であり、加藤は朝日なのだ。
 だが、本書の本当の凄みは、朝日が大磯での殺人と自死に至る物語の先の第五章以降にあるだろう。朝日が、左翼的でなく右翼的な、父なる天皇を仰ぐ国民社会主義革命に目覚め、「君側の奸」を除く行動にはしった、その思想の礎(いしずえ)は、北一輝(きたいっき)の著作によって与えられたと考えて良い。でも北は決して「君側の奸」の暗殺を奨励していたわけではあるまい。北の革命プランから敷衍(ふえん)された突出的行動として、朝日のラディカリズムが現れた。朝日は暗殺者としての自分の血染めになるであろう最後の衣を北に託すように遺言し、その通りとなり、それからの北には朝日に亡霊に取り憑かれたような言動が多くなる。北の理想は朝日に影響したが、朝日の実践が北のその後に大きな影を投げかけていることもまた、本書は活写している。北の革命の鉄砲玉として朝日が出現したとも言えるけれど、朝日の行動に北までが呪縛されたからこそ、朝日の仕方を反復するような昭和のテロルの時代が訪れた。そうとも言える。橋川文三(はしかわぶんそう)がいちはやく示した見方であるけれど、著者は右翼云々、天皇云々よりも、「鬱屈」や「生きづらさ」を強調することで、朝日を、現代にますます有効なモデルとして蘇らせている。まさに「テロルの原点」である。その意味で朝日は加藤を孕(はら)み、加藤はその後を孕み、若者に生きる希望を与えぬ社会は、個人的怨恨を超えた象徴的殺人を増殖拡大し得ると、本書は痛切に教える。読み継がれるべき予言的著作である。


 (かたやま・もりひで 政治思想史研究者)

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