書評

2023年4月号掲載

作詞の愉快

井上ひさし著/町田康編『だけどぼくらはくじけない 井上ひさし歌詞集』

池澤夏樹

対象書籍名:『だけどぼくらはくじけない 井上ひさし歌詞集』
対象著者:井上ひさし著/町田康編
対象書籍ISBN:978-4-10-302335-7

 井上ひさしは言葉の泉である。
 はじめちょろちょろ、中ぱっぱ、あげくの果ては大洪水。「魔法使いの弟子」状態に至る。
 言葉から言葉への八艘跳びで、その跳躍の筋力のもとは音の響き(つまり韻)であり、意味の連想であり、類語連鎖であり、パロディー力だ。留まるところを知らない。
 駄洒落、地口、秀句、縁語、みな日本の文芸に古代から伝わる技法だ。六歌仙から戯作者まで、文芸職人たちはいわば言葉のジャグラーである。いつでも手の上で言葉のお手玉をしている。
 百人一首、小式部内侍(こしきぶのないし)の「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」は三十一字のうちの十五字が地名、そこに「行く」と「文」の掛詞。超絶技巧と言える。
 この歌には背後にエピソードがある。若い歌人の母は和泉式部、歌の名手として世に聞こえていた。さる歌合に出た娘は母の代作を出すのではないかと疑われる。母は遠い天の橋立にいる。「お母さんから手紙は来ましたか」という邪推を即興で打ち返した機知。相手は返歌もせずに逃げたと。
 言葉は制度に先行する。だから言葉は自由だ。
 伝永井荷風の短篇「四畳半襖の下張」をめぐるワイセツ云々の裁判でひさしさんは丸谷才一さんに選ばれて証人席に立った。そこで自分はテレビの時報で「精工舎の時計が十二時を……」と言うのを聞いてすぐ「性交者」という言葉を連想する者であると言った。一事が万事。だから本書にあるとおり「思っただけでは、罪じゃない」のだ。官憲に脳内の妄想を取り締まる権限はない。
 うまい言葉は人の頭に住み着く。節がついていると耳に住み着く。英語では耳の虫(イヤワーム)と言う。だから「すきすきソング」の歌詞を見たとたんにアッコちゃんがぼくの耳に襲来して、たぶんこれから数日は離れないだろう。まこと迷惑である。
 ひさしさんは、笑いのめす、洒落のめす、茶化す、茶にする。ひさしさんは思い詰めない。悩まない。すなわち「泣くのはいやだ笑っちゃおう」の精神(「ひょっこりひょうたん島」のテーマソング)である。笑いの連鎖反応を使って世間を活性化する。これが世間であって社会ではないところが大事。人間くさいのだ。
 真面目になっても「吉里吉里国歌」まで。これは凜々しい。そして東北方言を堂々と用いるところは宮沢賢治の流れを汲むもので、その一方、『國語元年』の主人公南郷清之輔の努力をひっくり返すものだ。
 で、その国歌――

  吉里吉里人(ちりちりづん)は眼(まんなご)はァ静(すんず)がで
  鼻筋(はんなすづ)と心(こんごろ)はァ真っ直(つ)ぐで
  顎(おとげえ)と志(こんごろざす)はァ堅(かんだ)くて
  唇(くんづびる)と礼儀(れんぎ)はァ厚(あつ)えんだちゃ

  吉里吉里人(ちりちりづん)は眼(まんなご)はァ澄んで居(え)で
  頬(ほ)ぺたと夢(ゆんめ)はァ脹(ふぐ)れでで
  男性器(だんべ)と望(のんぞ)みはァ大(おっ)きくて
  女性器(べちょこ)と思慮(すりょ)はァ練(ね)れでえんだちゃ

 ふふふ、国歌に「だんべ」と「べちょこ」が出てくるところがひさしさんの本領。

 パロディーではひさしさんには敵わない。それを承知で自作を披露しておこう――

  わたしがおねむに なったとき
  やさしくねんねん こもりうた
  うたってねかせて くださった
  ほんとにやさしい おかあさま

  おまえがぐずぐず おきてると
  わたしといとしい おとうさま
  たのしいことが できません
  さっさとねなさい バカむすめ


 (いけざわ・なつき 作家)

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