書評

2023年5月号掲載

我々は物語のなかに生きている

サンダー・コラールト『ある犬の飼い主の一日』(新潮クレスト・ブックス)

いしいしんじ

対象書籍名:『ある犬の飼い主の一日』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:サンダー・コラールト/長山さき訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590188-2

 主人公はヘンク。56歳。ICU看護師。アムステルダム近郊のウェースプに住まう。
 背は高く、離婚歴あり。一冊ごとに自分のなかのなにかが失われると感じていながら、それでも読まずにはいられない、筋金入りの愛書家。ともに暮らす、オランダ固有の犬種コーイケルホンディエのスフルク(ならず者、の意味)を溺愛している。
 14歳の姪ローザに、初体験のことを訊ねられ、「勇気をかき集め」訥々と話す。ICUで、盲目の患者にボルヘスを読み、パーキンソン病の患者には賛美歌を歌い、孫の誕生を待つ終末期の患者のため、かぎ針編みで赤ん坊の服を作る。
 散歩中、必死にスフルクを気にかけるヘンクを見て、初対面のミアは「どれだけ彼が大きいか、どれだけ心配しているか。彼の顔はまるで子どものための本のように、読むことができた。なんてやさしい人なんだろう」と思う。
 読んでいて、みんなヘンクが好きになる。好きになるように書いてある。正確には、著者本人が、ヘンクのことが好きで好きでたまらない。「いまヘンクはすっかり穏やかに眠っている」と著者は、ほほえみを湛えながら書く。「口がぽかりと開いている」「ヒゲを剃っていないので、くすんだ色のベールが頬に広がり、よだれの筋がそのあいだを川のように流れる」「もう一度、言おう。ヘンクがこの自分の姿を見ずに済むのは幸運だ」。
 ヘンクばかりではない。ローザもミアも、離婚したリディア、もと同僚のマーイケ、口うるさい弟フレークさえ、著者はいとおしさをこめて書く(犬のスフルクはもちろん!)。彼ら全員の、この一日の物語を、一秒一秒、大切にしたためる。
 この物語自体。さらに、「書くこと」をこそ、著者は全身全霊、命がけで愛している。ヘンクが読書狂なのは、その裏返し。サンダー・コラールトは、犬を愛するように、小説を愛する。小説のほうも、コラールトとともに歩み、コラールトとともに食べ、コラールトとともに眠る。コラールトが呼べばいつだって彼の胸へいっさんに帰ってくる。
 ヘンクとミアの、再会の場面。「この後、会話がどうつづいていくか、我々は知っている」「ふたつの人生、ふたつの物語が結びつけられなければならない」「見る、匂いを嗅ぐ、感じる、推測する、想像する、評価する」「ミアのほうがヘンクよりもうまくできる」。小説にわりこんでいるようで、著者の「声」はあたたかく、ふたりの呼吸を絶妙なリズムで結びつける。まさしく子どものための本のように。こんな風に書いてもらい、小説が嬉しそうにしっぽを振っているのが目にみえる。
 語る、だけでなく、ときに歌う。小説の時間がふくらみ、一日をこえてはみだしてしまうときがある。「ローザはヘンクのそばにいるだろう。彼が九十三歳の高齢で、冬の終わりに亡くなるときに」「彼の痛みがひどいことに気づいて、彼から指示されていたとおり、自らモルヒネの量を増やすだろう」。
 犬の死も語られる。あまりにも正確に、あまりにも誠実に。ヘンクも、ローザも、ミアも、スフルクも、未来のいつか死ぬ。そしてわたしたちも。
 ふと思い当たる。わたしたちも、いつか死ぬことを知っている。その死を、時計の文字盤を逆回しにするように巻きあげ、わたしたちは今日一日を生きる。小さな物語を積み、誰かの物語と交差させ、たまに結びつけて、その日まで、声を、ことばを重ねてゆく。
 ちょうどオランダのひとびとが、日一日、海水をくみあげながら、いつか必ず水没する土地に暮らしつづけているように。だからユーモアが必要だ。だからこそ自由なのだ。未来まで一気に飛び、すぐにまた一瞬で、たったいま、ほかに替えがたいこの瞬間に帰ってくることができる。心臓はポンプだ。血をくみあげ、血を送り、ひとりひとり特別なリズムで今日の時を刻むのだ。
 そして、なにより大切なこと。
 ヘンクはローザに話したことがある。我々は物語を語る、と。我々は、物語のなかに生きている、と。
 そのとおり。ヘンクもミアも、ローザもマーイケも、もちろんスフルクも、この小説のなかに、いつだって生きていること。しっぽを振り、よだれを垂らし、生を凝縮したこの一日に、一個いっこの心臓を、鐘のように高らかに打ち鳴らしつづけていること。


 (いしい・しんじ 作家)

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