書評

2023年6月号掲載

墨色のきらめきが、胸に押し寄せてくる

三浦しをん『墨のゆらめき』

吉田伸子

対象書籍名:『墨のゆらめき』
対象著者:三浦しをん
対象書籍ISBN:978-4-10-454108-9

 もしあなたが書道経験者なら、本書を読み終えたらすぐに、インターネットで「書道教室 おすすめ」「書道教室 ○○」(○○には住んでいるエリアが入る)と検索するはずだ。少なくとも、書道経験者である私は、した。書道経験者でなくとも、八割くらいの読者は検索するのではないか、と思う。なぜなら、本書はとびきり極上の「書道小説」だからである。
 とはいえ、書道初心者が書道に開眼していく、といった物語ではない(そちらには、河合克敏さんの『とめはねっ! 鈴里高校書道部』という書道漫画の傑作アリ。お勧め!)。本書の真ん中にいるのは、二人の男だ。一人は、西新宿にある、三日月ホテルに勤務するホテルマン・続力(つづきちから)で、もう一人は書家・遠田薫。物語は、力が京王線下高井戸駅に降り立つところから始まる。遠田は三日月ホテルの筆耕士として登録されていたものの、連絡先としてメールアドレスしか登録されていなかったため、宛名を書いてもらう封筒を、力が直接届けに行かなければならなかったのだ。かくして、二人は出会う。
 もうね、この時の、自宅である「遠田書道教室」までの行き方を伝えた、遠田のメールからしてたまらないんですよ。「玉電の線路を右手に、線路沿いの道を三軒茶屋方向へ五分ほど進む。それまでのあいだで一番ボロいと思われる家が見えたら、そこがたぶんうちです」。どうです、このざっくり感。案の定、こんなざっくりな書き方では力が一発で辿り着けるはずがなく、途中には五叉路までがあらわれる始末。線路沿いの道、というのなら、普通は一本道なのではないのか、と憤りつつも、なんとか正解を見つけた力。そんな彼を出迎えたのは、「役者のようにいい男」という形容がぴったりの美丈夫だった。
 小学生相手の教室が長引いてしまっていたため、力は教室の隅で待つことになるのだが、教室での遠田と子どもたちのやりとりのくだりが、これまたたまらない。ここの描写だけで、遠田と子どもたちとの関係が一発でわかるだけでなく、書家としての遠田の卓越した才能もわかるのだ。
 なにより素晴らしいのは、全編を通じて、力の目を通して語られる「書」の描写の豊かさだ。かつて、これほど見事に「書」を活写した物語があっただろうか。否、ない。
 遠田に渡した封筒に宛名が書かれて送り返されてきた時の、力の感想はこうだ。宛名の文字は「黒曜石を砕いて溶かした墨液を使ったのかと思うほど、鋭くも深い光を帯びて」いながら、「あくまでも『お別れの会』の開催を告げる郵送物、という慎みを保ち、調和が取れている」。
 遠田が依頼された、漢詩「送王永(おうえいをおくる)」の書を見た時はこうだ。「活字のようにかっちりした書体で、神経質なほど端整なのに、全体としてなぜかぬくもりと体臭が感じられる」。その書を眺めていた力は、なんだか悲しくなってくる。「いや、漢詩の意味はしかとはわからないが、文字の連なりから静かな悲しみが押し寄せて、俺自身が悲しいかのように錯覚されたのだ」。
 凄くないですか? 遠田の書ももちろんだが、その書をこんなふうに受け止める力の感性の真っ直ぐさたるや。そんな力だからこそ、訳あり(なんですよ!)の遠田が自分のフィールドに受け入れるのだ。
 ここから先は、まぁ、色々あるのだが、それは実際に読んでください。代筆業でバディを組んだ遠田と力の「作品」をはじめ、思わず声を出して笑ってしまうかと思えば、胸の奥がぎゅうぅぅぅっ、となったり、読み応えたっぷり。本書はAmazonのAudibleとの共同企画として書き下ろされたもので、実際に耳で聴いても素晴らしい作品になっていて、今の今、作家・三浦しをんがどれだけの充実にあるのかがわかるのも、またまたたまらない。読んでから聴くも、聴いてから読むも、お好みで。文句なしの傑作です!


 (よしだ・のぶこ 文芸評論家)

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