書評
2023年6月号掲載
人間関係を根底としたコン・ゲーム
ロス・トーマス『愚者の街(上・下)』
対象書籍名:『愚者の街(上・下)』(新潮文庫)
対象著者:ロス・トーマス/松本剛史訳
対象書籍ISBN:978-4-10-240311-2/978-4-10-240312-9
このところ、新潮文庫の〈海外名作発掘〉シリーズ(映画評論家・滝本誠氏命名)が楽しみで仕方ない。何しろD・E・ウェストレイクの逸品や、第一回英国推理作家協会最優秀長篇賞受賞作など、「えっ、こんな名作が今まで未訳だったの?」と思わず驚く幻の作品が、発表年から半世紀以上経って、次々と邦訳され始めたのだ。中でも衝撃的だったのは、このシリーズの開幕を飾ったライオネル・ホワイトの『気狂いピエロ』が初邦訳されたことだった。これは仏映画界の巨匠フランソワ・トリュフォーとジャン=リュック・ゴダールが若き日に読んで感動し、ゴダールが映画化した伝説のヌーヴェル・ヴァーグ名画の原作である。ホワイトはスタンリー・キューブリック監督『現金(げんなま)に体を張れ』の原作(『逃走と死と』)も書いており、犯罪小説の第一人者であった。なぜこれほどの作家の作品が当時はもちろん、これまで訳されてこなかったのかはわからないが、ともかくこの偉業は正直本当に嬉しかった。またその流れで、同じくゴダールの映画化作品、ドロレス・ヒッチェンズの『はなればなれに』も初訳刊行されたのだった。こちらはホワイトほどには知られていない作家だったが、一読してまあびっくり。ノワール青春物語の大傑作なのである。これぞまさに名作の発掘だった。というか、このシリーズはこれまでただの一度も外れがないのだった。
そして、今回発掘されて登場したのが、ロス・トーマスの『愚者の街』というわけである。
わが国におけるトーマスの人気と評価は決して安定したものではなかったが、玄人筋には受けがよく――ベテランの編集者や原尞、志水辰夫など一部の作家および評論家からは、彼の才能と実力に関して絶大の信頼が置かれていた。そのせいもあってか、翻訳は比較的コンスタントに出ていたものだ。潮目が変わったのはアメリカ探偵作家クラブ最優秀長篇賞を受賞した『女刑事の死』(1984)からで、これ以降は1995年の肺ガンによる死去まで、原作発表からさほど時間を経ずに新作が邦訳刊行されている。しかし、そうは言っても1960年代後半から1970年代の作品には未訳のものもまだ多くあり、本書『愚者の街』(1970)はそのうちの一作で、トーマスファンには青天の霹靂であると同時に、待望の翻訳刊行なのであった。
ロス・トーマスの魅力と特色はいくつかあるが、多くの読者が指摘するのは、登場人物の多さと彼らが入り組んで繰り広げる複雑極まりない物語展開ということだろう。そうした複雑に迷走する筋を、トーマスは緻密な描写を積み重ねて人物を描きわけながら、どこまでも執拗に語り継いでいく。だが力みのない筆致のおかげで、逆に情景には濃淡が加わり、人物の造形と陰影には深みが増していくのだった。ある翻訳者は「じっくり読んでみれば、こみ入っているのは謎をより難解にみせるためのストーリー作法上のテクニックによるものではなく、登場人物群の人間関係が複雑に入りまじっているからであることがわかる」と述べている。物語展開にしても、人間関係を重視するからこその独特な進み方をしていくのだった。
代表的な例で言うと、『女刑事の死』は刑事だった妹が愛車に仕掛けられた爆弾によって殺され、真相を探るために兄が十数年ぶりに故郷へ戻ってくる。となると、ここは警察と共に誰が妹を殺したのか、何のために殺したのかという事件の謎を解明していくのが普通だろう。しかしそうはならないのである。本書にしても同様だ。それに加えて、トーマス最大の特徴である“裏切り”を前提にしたコン・ゲーム的な要素がたっぷりと盛られていくのだ。
主人公は“セクション2”と呼ばれる組織の秘密諜報員だ。ところが、香港でのミッションが予期せぬトラブルに見舞われ、彼は三カ月ほど収監されることに。やがて手切れ金同然の退職金を手にした彼の前に現れたのが、都市専門のコンサル業を営む実業家であった。そこで彼は、アメリカ南部にある人口二十万人程度の街を腐らせてくれないかという奇妙な仕事を依頼される。
さてここからがトーマスの真髄であり本領の発揮、腕の見せ所となる。主人公はいかにして街を腐らせていくのか。これが実に突拍子もなく、しかしながら実際にあっても不思議ではない作戦――人間関係を根底にしたコン・ゲームと言っていいものであった。
こんなにヘンな話を書けるのはトーマスぐらいなものではなかろうか。いや、大満足の一作でありました。やはり新潮文庫の〈海外名作発掘〉シリーズは凄い!
(せきぐち・えんせい 文芸評論家)