書評
2023年6月号掲載
フェア既刊 書評
日本人が活用できていない多様な表現の世界
マジョリー・F・ヴァーガス『非言語(ノンバーバル)コミュニケーション』
対象書籍名:『非言語(ノンバーバル)コミュニケーション』
対象著者:マジョリー・F・ヴァーガス/石丸正訳
対象書籍ISBN:978-4-10-600334-9
ノンバーバルコミュニケーション。すなわち、身振り手振りをはじめとした、あらゆる言語を伴わぬ意思伝達手段。本書は1986年、米アイオワ州立北アイオワ大学助教授(当時)のマジョリー・F・ヴァーガスによって書かれた、このテーマにおける基本文献・入門書とも言える作品であり、発行から四半世紀を経た今なお、版を重ねるベストセラーだ。
なお、評者はかつて、脳梗塞による後遺症(高次脳機能障害)で、他者との対話におけるあらゆる的確なリアクションが咄嗟に取れなくなる症状に、苦しみ続けた過去がある。失笑、共感の頷き、小首をかしげる、何もかもが自然に出てこない。相手と目線を合わすこともできない。5年ほどもかけて解消した症状だったが、非言語表現を喪失したことは、その他の多くの障害の中でも最も激しく人生の質を落とす要因だった。
あの時、楽になる手段はなかったのか? そんな好奇心を胸に手に取った本書から得たのは、二つの驚きだ。
まず本書では、アメリカを中心に様々な言語圏・文化圏におけるノンバーバルコミュニケーションの事例を挙げながら、それを9分類に切り分ける。主に性別や体格などの身体的特徴、顔の表情と体の動き、視線を中心として目を使うもの、ボディタッチ、空間(位置取り・距離感)、周辺言語(パラランゲージ)、沈黙に加えて、色彩や時間(タイミング)まで。それらが多様な文化圏でそれぞれどのように運用されているかを描くのが、本書の核だ。
一つ目の驚きは、まずこれらの多様なコミュニケーション手段について、その大多数が日本の日常生活の中では活用・運用されていないことだった。
人生で何度、ウィンクをしたことがあるだろうか? 「あなたに好意があります」のウィンクと「気にしなくても大丈夫だよ」「やってやったぜ!」のウィンクを使い分ける日本人に、評者は会ったことがない。そのアクションが、意思伝達に有効だということは分かる。意味も分かる。だが、日本文化圏においてそれは過度に抑制され、多用すれば「この人はオーバーアクションだ」とされかねない。常用しないゆえに、練度も極めて低い。
もう一方の驚きは、沈黙というコミュニケーション手段に対して、自身の中で無用に強いネガ感情があることに気づかされたことだった。本書でも沈黙について描く章は極めて短く、記述のほとんどがやはり沈黙をネガティブな伝達手段として触れている。けれど、沈黙を過剰に恐れ、相手に対して禁忌な対応だと過剰に思うことが、過去の自分をどれほど追い詰めてきたのか。そのことに、驚いた。
自分ごとに戻ると、自身が障害の発症当初に失ったのは、非言語に加えて「咄嗟に相手の感情・それまでの話の流れなどを把握したうえで、ベストの言葉を組み立てて返答する」という言語コミュニケーションでもあった。言葉の意味は分かるが、把握・理解・判断、そして返答という一連のプロセスが極めてゆっくりとしか行えなくなってしまい、無理に返答すればしどろもどろになってしまうのだ。
だがここで、沈黙とその他の非言語な手段を合わせた対応ができれば、どれほど返答を考えるためのマージンを稼ぐことができたろうか。咄嗟に返答せずとも、沈黙と共に片手を拝むように顔前に挙げれば、「ちょっとゴメン、考える時間をくれ」になったかもしれない。手のひらを見せれば「ちょっとストップ」。発症前にこうした沈黙と非言語表現の組み合わせに習熟していれば、きっとあのつらい時間をずいぶん緩和できていたに違いない。
「黙っているけれど、無視じゃないんだよ」という非言語表現は、健常者のコミュニケーションスピードについていくのが困難な状況の者にとって、ワイルドカードだ。沈黙の活用は自己防衛になり得る。
そこに至らなかったのは、やはり殊に日本においては非言語表現が極めて貧困で抑制されていることと、沈黙が相手に対して失礼な意思表示とされていることが作用したのだろう。実際、脳の機能が落ちていた時期、沈黙が相手に与えるネガな印象を恐れ、その状況に焦り不安になったことが、一層言葉の不自由につながった実感もある。あの時、沈黙に様々な意味を与えるノンバーバルの技術を持っていたならば、どれほど楽になれたろうか……。
残念ながら、現代の日本社会は沈黙のポジティブ運用とは逆行している。非言語を封じられたネットコミュニケーションにおいて、LINEの未読スルーは絶縁の意図にすら解釈されかねない。対面での沈黙(無視)はフキハラ(不機嫌ハラスメント)の象徴でもある。
社会で許容されるコミュニケーション手段が年々制限されるようにも感じる昨今、本書は非常に現代的な課題と実用性を提起する。
(すずき・だいすけ 文筆業)