書評

2023年7月号掲載

虚空に漂えば

鈴木涼美『浮き身』

桐野夏生

対象書籍名:『浮き身』
対象著者:鈴木涼美
対象書籍ISBN:978-4-10-355151-5

 主人公の「私」は、ふとしたことから十九年前の記憶を蘇らせる。当時の「私」は十九歳。大学にほとんど通わず、飲み屋でバイトをしていた。
 ある夜、「私」は年上のホステス、梨絵さんと連れだって遊んでいるところを、梨絵さんの知り合いのボーイに誘われて、ラブホテル街に建つ古いマンションの十一階の部屋に導かれる。そこでは、三人の男たちがデリヘル、つまり無店舗型風俗店の開業を目指して準備をしていた。
 いつの間にか、その部屋には男たちの仲間や、女たちが足繁く出入りするようになる。デリヘルで手っ取り早く金儲けを企む男たち、それを手伝う男、何をしているのかわからないけど出入りする男、デリヘルで働きたい女、そしてデリヘルで働く気などない「私」も、なぜか入り浸るようになる。
 部屋の記憶は、「私」の嗅覚によって生々しく支えられている。たとえば、いつも漂っている不穏な酸っぱいにおいは何か。誰かの吐瀉物かもしれないし、コンビニのおにぎりが腐敗しているにおいだったかもしれない。そして、得体の知れないビニールのにおい。
 やがて酸っぱいにおいは、皆が吸う煙草のにおいに凌駕されて、煙草のにおいしかしなくなる。それも、女の吸う煙草と男の吸う煙草は違うにおいがする。男がつけているムスク系の香水。渚ちゃんという子はミント・スティックを両手に挟んでコロコロとやっては、いつもその両手のにおいを嗅いでいる。しかし、「私」が嗅ぐと、渚ちゃんの掌からはヨダレのにおいしかしない。嫌悪感も不快感も特に表されずに、「私」は部屋の爛れをにおいで描く。
 男たちは、肉体的な特徴で表される。デリヘル開業を目論む三人の男は、それぞれ黒髪、金髪、顔長男。部屋にしょっちゅうやってくるガタイの良い先輩や、パソコンでチラシやHPを作成する細眉、そしてデブのヤクザに坊主頭の男。男たちは、なぜか名を与えられない。
 対して、女たちは源氏名で呼ばれる。梨絵さん、マリア、ユリカ、チカちゃん、渚ちゃん、ポンちゃん。
 同世代と言っても差し支えない若い男たちが、女を使ってひと儲けしようとする。金欲しさにデリヘルを厭わない女たちがそこに集まってくる。
 だが、「私」は飲み屋で働いているだけで、風俗をするつもりはない。むしろ、風俗嬢に対して微かな侮蔑感さえ持っている。経営に加わるわけでもなく、「私」はただ単にその部屋にいる。では、「私」がそこにいられる理由は何か。
「誰の性器を咥えることも、別に泣くほど嫌ではなかった。それで部屋に出入りする正当な権利がもらえるならよかった。(中略)この部屋にいる限り、少なくともしばらくは何者にもならずに済むように感じて、出ていく理由を持てずにいた」
「私」は限りなく中途半端な存在である。が、しかし、若い女ではある。部屋にいられるということは、誰も口にはしないが、やはり性の場に共にいるということだ。
 部屋での共通言語はセックスである。誰も意識せずに放たれる言語だ。「私」も、最初の夜に、布団を借りるのだからという理由で黒髪と寝る。そのことには何の感想もなく、単に射精はしなかったと思い出す「私」。
 かように定まりのない「記憶」ではあるのに、ここには悪い夢を見ているような苦い淀みがある。
 心理描写はほとんどなく、執拗に描写される部屋のにおいと風景。いったい、この主人公は何を思い出したいのだろうと、読み手は不安を覚える。
 不安こそが、この小説を覆う空気でもある。そのうち、不安の正体がわかる時がくる。これは、怖ろしく空疎な「性」の物語なのだということが。
 作者は心理描写をしないことに技巧を凝らしている。それは、性に伴うはずの精神を排除した「性」を描くことに成功している。精神を排除した「性」はやりきれないからである。虚しいからである。
 昨今、これほど凄みのある作品を読んだことはない。経験値というものがあるとしたら、この年代の人間の経験値は、私たちが思うより深く、残酷な場数を多く踏んで培われたものなのだろう。もっとも残酷という言葉でさえも計ることのできない、質の違う経験なのかもしれない。『浮き身』は、近年稀に見る傑作である。


 (きりの・なつお 作家)

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