書評

2023年7月号掲載

あなたかもしれない

高橋弘希『叩く』

佐藤厚志

対象書籍名:『叩く』
対象著者:高橋弘希
対象書籍ISBN:978-4-10-337074-1

 最近、相手が老人だろうと容赦なく暴力を振るって現金を強奪する、いわゆる「タタキ」という犯罪が横行している。表題作「叩く」はまさにそんな強盗事件のさなかから始まる。見知らぬ家で佐藤は目を覚ます。老婆が猿ぐつわをされ、結束バンドで縛られて横たわっている。一緒に押し入った塚田という仲間は佐藤を殴って気絶させ、現金を独り占めして逃げたらしい。顔を見られた佐藤は老婆を殺さなくては、と思うが握った包丁を畳に突き刺し、へたり込む。
 ミステリ小説ではあっさり人が殺されるが、殺人は動機があれば起こるわけではない。人間を刺し殺す、あるいは叩き殺すという行為はやはり異常である。佐藤は良心について「くそくらえ」と言う割には思い悩む。自分がどこにいるか、何をしたか、自分が何者か。垂れ流される佐藤の思考を辿ると、なんのことはない、「普通の」若者の姿が浮かびあがる。人生がうまくいかず、人のせいにして、責任を取らない。甘い話に飛びつき、安易な道に逃げ込む。誰にでも思い当たる節があるはずだ。作者が「この若者はあなたかもしれない」と指を突きつけてくる。
 しかし現代の「普通の若者」とは何かというと、金のない若者ではないか。そして世の中は若者を低賃金で奴隷のように遣い倒して食い物にする。
 高橋弘希氏が「送り火」で芥川賞を受けた時、選考委員のひとりが「この暴力は文学ではなく警察に任せれば良いことになる」と発言している。国家は問題の最終解決手段として暴力を用いる。暴力こそ文学で突き詰めるべきだ。
「アジサイ」の田村もまた周りにいそうな人間だ。妻が出ていって初めて自分の落ち度を探すが、問題の本質から目をそらし、自らをごまかす。夫婦関係の問題は見て見ぬ振りで、愛想を尽かされるというのは身につまされる。
 見て見ぬ振りという話で言うと「風力発電所」は便利さを享受する我々にその裏にあるものを「見ろ」と迫る。著者自身を思わせる「私」が風力発電機を見に青森県六ヶ所村を訪れる。そこで東京にいると意識しない、地域の因縁や、大飢饉の歴史が見え隠れする。深夜、「私」は奇妙な音で目を覚ます。音の正体は不気味に響く風車機のブレードの回転音だった。さらに風車機の根元に大量の鳥の羽と腐臭を放つ臓物を発見する。
 都会に持ち帰られた鳥の羽は「私」の妻がフラワーリースの一部に使ってしまう。グロテスクな現実も都会にくると洗練された何かに瞬く間に変容する。便利なものには代償が伴う。夜でも明るい都市生活と引き換えにどこかで腐臭が発生している。
「埋立地」も「風力発電所」のように開発のいびつさをあぶり出す。都市開発の名の下で広大な田園、緑地が埋め立てられ、更地にされる。ある日、少年四人が開発現場で謎の横穴を見つける。横穴の上部に「土」という文字がスプレーで記されている。さらに暗闇で「YOUKAICHI」と書かれたプレートを拾う。八日市という土地を示すものだが、「妖怪地」とも読める。余白を塗りつぶすように開発をすることで事業を継続する大企業がある。彼らにとって「土」は埋めて塞ぐべきものだ。
「海がふくれて」の背後には東日本大震災が横たわっている。主人公の琴子は父への手紙を入れた硝子瓶を海に放る。「九年前の天災」によって父は行方不明となっていた。「将来になりたい職業も見当たらない」琴子は幼なじみで恋人の颯汰との距離を測りながら自己を確立していく。一方では父の死からは解き放たれずにいる。「自分は父に、死んでいて欲しいのかもしれない。生きているのか、死んでいるのか、わからない宙づりの状態で過ごすくらいならば、いっそ死んでいて欲しいのかもしれない」。津波による行方不明者の家族を思わずにはいられない。震災直後、家族はいたたまれない一分一秒を味わった。それが一日、一週間、一月、一年と伸びていく。今日帰るかも知れない、明日帰るかも知れない。それが延々と続く。葬儀に踏み切れない家族も多かった。遺体が見つからない以上、家族の死を家族が決めるのだ。
 終盤、高潮で危うく死にかけた琴子はよすがとしての灯台に気づく。琴子の元に海に放った手紙の返答だというように漂着物が打ちあげられる。死者は語らない。生のさなかでこそ、死者を思うことができる。


 (さとう・あつし 小説家)

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