書評
2023年7月号掲載
支配の核を射抜く目
中西智佐乃『狭間の者たちへ』
対象書籍名:『狭間の者たちへ』
対象著者:中西智佐乃
対象書籍ISBN:978-4-10-355111-9
本書には表題作「狭間の者たちへ」と、デビュー作である「尾を喰う蛇」の二篇が収められている。それぞれを一篇ずつ紹介するのが書評らしい形式なのだろうが、本書の場合は適切ではない。前者の主人公・祐輔と後者の興毅が物語の中で落ち込んでいく暗がりは、二篇を同時に見渡してこそ、その暗さが、深さが、狭さがあきらかになるためである。
どちらでもいい、読みだしてすぐにあなたは嫌な息苦しさを感じるはずだ。嫌な湿り気が、また嫌な臭いが物語から立ちのぼってくるのを嗅ぎつけるはずだ。それは著者のたくみな描写の数々が、インクに添加し文章に固着させたものである。祐輔のつけるマスクの内側から、興毅が腕を差し入れる患者の腰の下から漂う臭気は、そのまま本書の放つ特色である。臭いから逃れることはできない。読み終わっても部屋に妙な生ぐさい臭いが残っているのではないかと思われるほどだ。そしてそれは祐輔と興毅もそうなのだった。彼らは幼馴染、同級生、同僚の中で、また職場での役割と地域のしがらみ、長男であるという因習めいた自意識などによって、まるで罠の餅に絡み取られて、進退きわまった鳥のように物語の筋道から逃れられずにいる。話が進むにつれ職場でも家でも、彼ら主人公は安息することができなくなる。そうなればなるほど、加速度をつけて物事の一切は悪くなっていく。悪化の原因はといえば、ひとえに抱え込んでばかりの、またなにかと用事をつくって休んでしまう同僚のせいであり、育児を理由に怠惰をきめこむ妻や妹のせいであり、無意識に優位な立場となったことを悪びれもしない幼馴染や前職の同僚のせいであり、暴れ、唾に糞便に尿をまき散らす患者たちであり、口を開けば陰口しかいわない年上の女たちであり、裏切った女であり、また女であり……そう、本書の主人公たる祐輔と興毅は、自分以外の何者かのせいで自分が苦しみ、しかも理解されず、そのためにばかをみているという確信の外には、一歩も踏み出さない。まるで、彼らが休日に出勤したり問題行動の多い患者の見回りを他の者から替わるのは、そうすることで自分が、他者に対して常に正しく、にもかかわらず正当な評価を受けていないのだと証だてるためかのようだ。そんな証に、しかしなんの意味があるだろう? 自分の不満をみずから煽り立てるほかには使いようのない証明なのだ。彼らは遣るかたのない不満を抱え続ける。いきおいそれは、外に吐きだされずにはいられない。彼らはちゃんと、どこにそれを注げばいいのかを知っている。女に対して、患者に対して――身の内にあった不満は、吐きだす方向を見出したとき欲望に変わる。欲望が充足されるには、それは成就されなければならない。ならば抵抗や拒絶を受けない相手が望ましい。電車の中の女子生徒、駆け出すことなど思いもよらない年齢の患者が、だから本書においてその対象となるのだった。相手の恐怖に硬直し震える肢体や瞳は、二篇に横溢する臭気が形を取ったものにほかならない。嫌悪が不満へ、不満が欲望へと転じる中で、どうせそこから出ることはできないのだから、せめて〈元気をわけてもら〉わなくちゃ。多少は痛めつけておとなしくさせなくちゃ。この心理に祐輔と興毅が至るとき、「尾を喰う蛇」に中国大陸での日本軍の所業を取り入れた著者の目は、確実に支配というものの核を射抜いている。命令と服従という、一方向からだけ発せられ、しかも不達が想定されない、予め実行「された」ことが内包してある行為の裏に、どれほどの暗い暴力と欲望がひそんでいるのか、またそれが歴史的に男によって独占されてきたのか、さらにこの行為によって成り立つ支配が、支配する者をも支配していることを、本書の二篇は描き切っている。
かように、暴力と欲望に黒々と塗りつぶされた世界が活写された二篇の小説であるが、じつをいえば「出口」の存在も示唆される。「尾を喰う蛇」の中の、ごく些細な一文である。
〈生活を支えるというのは、家族以上に関係が濃くなっていく事だと思う。〉
ここに、閉ざされ、また自らを閉ざす世界の外へのかかわりがある。そのうえで祐輔と興毅、それぞれの物語との別れ際の姿を読み返すことは、彼らがとった弱い者に対する、支配という関係の臨界を探り当てる契機となるだろう。支配がおわるとき、他者の瞳によって見迎えられたあとで、片や暴力へ帰っていき、片やプラットフォームの石の感触に身をゆだねる。両者が異なるのか、一緒なのか、両者と読者たる自己に、どれほどの隔たりがあるのか、本書を読むことになるあなたが決める。
(ふるかわ・まこと 作家)