書評
2023年8月号掲載
正直な告白
水谷豊・松田美智子『水谷豊 自伝』
対象書籍名:『水谷豊 自伝』
対象著者:水谷豊/松田美智子
対象書籍ISBN:978-4-10-306453-4
私と水谷豊がわずか一学年のちがいと聞いて、やすやすと信じる方はいないだろう。
小説家は老け顔のほうが説得力がある。俳優は若く見えたほうがよい。そうした職業上の理由を差し引いたとしても、少くとも外見は十歳ぐらいちがうと思える。
しかし本書の冒頭にあっさりと書かれている通り、水谷は1952年の7月生まれ、私は1951年の12月生まれである。いや私たちの世代は生年を西暦で表記しなかったから、正しくは昭和27年と26年生まれと言うべきであろう。
改めてそう確認すれば本書の記述に親近感を抱く。
たとえば、縁の薄かった父親が東京で一旗上げ、北海道から妻子を呼び寄せるなどという話は、今の人にはまるで理解できまいが世情の不安定であった戦後期には珍しくもなかったであろう。ただし、水谷はそうした生い立ちを苦労話にはしない。高度経済成長の申し子と言える私たちの世代にとって、苦労は屈辱でこそあれけっして自慢すべきではないからである。同世代の読者の多くは、語られぬ苦労を察して首肯するにちがいない。
みなが不幸であった時代の不幸と、みなが幸福である時代の不幸はちがう。それを克服するためには、太陽のごとくポジティブに生きなければならない。だから私は本書を読みながら、何という正直な告白だろうと思った。
水谷豊との出会いは2015年、『王妃の館』の映画化に際してであった。
第一印象は「よく笑う人」。どちらかと言えばシリアスな役柄が多いので、これは思いがけなかった。そして実は私も「よく笑う人」。まして二人とも「笑わせるのが好きな人」であった。つまり外見はかくも異なるが、私たちの世代には必ずクラスにひとりはいたムードメーカーである。
『王妃の館』は現代と十七世紀のパリをストーリーが往還するというとんでもないコメディで、こればかりはまかりまちがっても映画化はされまいと思っていた。それが長期にわたるパリ・ロケを敢行したうえ、ルーヴル美術館もヴェルサイユ宮殿も借り切った大作に生まれ変わった。ちなみに、「相棒」の「杉下右京」と『王妃の館』の「北白川右京」はまったく偶然の命名で、ロケ現場でそうと教えられるまで私は気付いてすらいなかった。
その「相棒」について、本書は最も多くのページをさいている。なにしろ今年でシーズン21、つごう二十三年も続いている国民的テレビドラマであるから、ファンにとっては垂涎の裏話であろう。
そもそもこのごろは、ドラマそのものが作りづらくなっている。時代劇はNHKの大河ドラマを除いて地上波から姿を消し、ほかのドラマもあらかたは、医療ものと刑事ものに集約されてしまった。内容も総じて小粒になった観は否めまい。そうした中にあって、やはり「相棒」は別格であると思う。ダイナミックなストーリーテリングを持ち、罪と罰の本質に迫るテーマ性を備え、いわゆるサスペンス・ドラマとは明らかに一線を画している。それこそが「相棒」の「相棒」たる所以であろうと思う。
NHKによるテレビ放送の開始は1953年2月、高度経済成長の申し子である私たちは、同時にテレビの申し子でもあった。水谷のテレビドラマに対する愛着は、おそらくその事実と無関係ではあるまい。
巻末に水谷は語る。
「僕は言葉を必要としない感情の表現を目指しているので、時々、台詞を邪魔だと思うことがありますね。言葉から解放された世界を目指すのは、言語がまだ確立していなかった時代に戻ろうとする本能なのかもしれません」
言い方は異なるが、言葉に対する私の持論でもある。私たちがまだ猿であった時代、純潔であった「心」は言葉という伝達方法を獲得した分だけ、実は穢(けが)れてしまった。ゆえに言葉を操る私は、その穢れを知り、かつ言葉を疑い続けなければならない。水谷の言わんとするところは、同じであろうと思う。
よく笑いかつ笑わせ、役者バカと小説バカ、家族は妻とひとり娘。ベストドレッサー賞と日本メガネベストドレッサー賞をいただいたついでに、肺と心臓を病んだ。ちがうのは見てくれだけ。
これだけ揃うとどうも他人のような気がしないので、この書評を書くことにした。
(あさだ・じろう 作家)