書評
2023年9月号掲載
特集 新潮クレスト・ブックス 創刊25周年フェア
宿命の紛失と再生
ジュンパ・ラヒリ『思い出すこと』
対象書籍名:『思い出すこと』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ジュンパ・ラヒリ/中嶋浩郎訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590190-5
引越し先のローマのアパートには、古い書き物机が置かれていた。ラヒリは引き出しの奥に、詩のノートを発見する。表紙にボールペンで「ネリーナ」という女性の名前が記されている。引き出しにはノートとともに、三人の女性が写った写真がしまわれていた。真ん中の女性は、陽の加減で顔も表情も読み取ることができない。ネリーナとは彼女であろうと、ラヒリは直感する。
ネリーナとは一体どのような人物だったのか。ラヒリは、詩のノートをイタリア詩の研究家であるヴェルネに託す。ヴェルネによる解説を読み進めることで、物語は動き出す。
詩は、非常に個人的なものだ。ある物事について、散文で説明することはできるが、詩で説明することはできない。詩は、他者の理解を必ずしも必要とはしていない。他者に理解されることを意図しない心の声は、散文よりも詩の形に近くなる。
心に流れる電気信号を、誠実に掬い取った詩。詩のノートを点検していくことで、詩の書き手であるネリーナの、偽りのない生々しい部分に触れることができる。初めは探偵にでもなったような気分で、詩のノートをめくっている。
詩の面白さは、詩の語り手の声と、自分の声が重なるように共鳴し合う瞬間が生まれることだ。詩をつづるネリーナの声と、自分の声の境界が次第にぼやけていく。多くを語らずとも、親友と目をあわせて頷く、あの瞬間に起きる作用と似ている。この本を閉じる時には、ネリーナという心の友を得たような感覚すらあった。
「イタリア語しか話さない人には想像できない語彙の誤りが随所に見られる」という詩の特徴を、ヴェルネは指摘する。詩はイタリア語で書かれてはいるが、ネリーナはイタリア語を母語とする人間ではないということだ。さらに、生まれ育った家庭で使用されていた言語の他に、もう一つ言語を習得している形跡がみられる。つまりネリーナは、個人的な詩を書く言語として、自分の意思でイタリア語を選択していたのだった。
「紛失」は重要なテーマの一つだ。詩の中で繰り返される紛失。それに続く、死別、除去手術。これらを短絡的に「喪失」という言葉で一括りにしたくなるが、詩人ペソアの名詩をネリーナは引用する。「死は道の曲がり角/死ぬとは姿が見えなくなるだけのこと/耳を澄ませばおまえの足音が聞こえる/私が存在するように存在している」。ジュエリー、プレゼント、人形、美しい男の写真。紛失した物は姿が見えなくなるだけで、失われてはいない。それでも、紛失には戸惑いと悲しみが伴う。必死に紛失したものを探し出そうとするなかで、紛失物の代わりに、真実が浮かび上がってくる。
今でも自分を苦しめる、娘時代の思い出。それは、宿命的に避けることができなかった言語を象徴するものでもある。言語には、国という所属名がつきまとうものだ。ネリーナは言語の間で呆然としている。一人の女性として成熟し「今まで重ねてきた年を祝う」と顔をあげる一方で、空港の保安検査で「こうしてわたしは死者となる。/この詩の作者は存在しない。/かれらの決定により亡き者にされる。」と亡霊のように顔を失ってしまう。自分の顔がぼやけている写真を、机に大事にしまうという行為。詩のノートに貼りつけられた、身元不明の水死体が引き揚げられたという新聞記事。正体不明であるということが、ネリーナが感じている自分自身の正体なのだ。
一方で、イタリア語を使って遊ぶネリーナはどこまでも自由だ。「わたしの知らないうちに/待っていてくれる言葉を/くまなく探すこと。」という詩の言葉は、清々しい生きる希望に満ち溢れている。ネリーナは、宿命的に避けられなかった言語を故意に紛失するために、イタリア語を選び取ったのではないかという考えが浮かんでくる。娘時代の言語を道に置き去りにして、曲がり角の先にある新しい言葉に出会う。イタリア語との出会い、新しい言葉との出会いによって、ネリーナは自分の顔を見出そうとしている。
本作品は詩と小説を融合させた、ヴァース・ノベルと呼ぶこともできる。ただこの作品は、単なる文学的技巧の挑戦ではない。人の生(声)にどこまで誠実に向き合えるかに挑んだ、イタリア語を母語としないジュンパ・ラヒリの再生の物語だ。
(まーさ・なかむら 詩人)