書評

2023年9月号掲載

現実が本を追いかける「給料」と「日本」の未来

デイヴィッド・バックマスター『給料―あなたの価値はまだ上がる―』
櫻井よしこ『異形の敵 中国』

淡波薫

対象書籍名:『給料―あなたの価値はまだ上がる―』/『異形の敵 中国』
対象著者:デイヴィッド・バックマスター/桐谷知未訳/櫻井よしこ
対象書籍ISBN:978-4-10-507331-2/978-4-10-425318-0

「本というのはスローなメディアでして」
 旧知の編集者はそう言ってコーヒーカップに口をつけた。
「現実を追いかけても、絶対に追いつけないんです。『よし、こういう本をつくろう』と思ってからその本が書店に並ぶまで、ふつう半年から1年はかかるものなんですから」
 しかも、ニュースは報じられた瞬間から古びていく。
「だから鮮度と長持ちの両立を心がけるんです」
 なるほど、しかし、本が現実より先回りすることもあるようだ。
 たとえば、〈全国平均の最低賃金が時給換算で初めて1000円突破〉というニュースが流れたとき、わたしが読んでいたのはその1カ月以上前に刊行された『給料 あなたの価値はまだ上がる』という本だった。著者のデイヴィッド・バックマスターは、スターバックスやナイキといったグローバル企業で従業員の給与決定に関わってきた人事のエキスパート。欧米のみならず、ブラジル、メキシコ、ベトナム、シンガポール、アラブ首長国連邦など世界各地で給与を設計してきた人物だという。著者によれば、世界の大企業の給与設計を担っているのは〈世界で最も退屈な秘密結社〉ともいうべき少人数のグループであり、〈職務の詳細を少しばかり教えてもらえれば、誤差数%未満で、現在どのくらいの報酬を得ているか(あるいは得るべきか)を答えられる〉そう。パーティーとかの余興で人気者になれるかも。
 それはともかく、本作で書かれているのは、納得できる「公正な給与」をもらおうじゃないか、そのためにはどうすればいいのかということだ。〈あなたは自分のために最適な給与を得ようとしているが、会社は同じ職務に就く熟練した人や未熟な人も含め、システム全体の給与を最適にしようとする〉からこそ、著者は会社側が給与を決定するまでのロジックを丁寧に説く。しかも、お題目や理論ではなく、徹底的に具体的に。
 第1章は2014年9月に米ワシントン州シアトルで起こった最低賃金の引き上げを求めるデモから始まる。デモはスタバのグローバル本社前で行われ、著者はまさにその本社内で全米にあるスタバ全店舗の従業員(10万人以上!)の給与を決定する立場として働いていた。「労働者が尊厳を持って生きるのに必要な最低額」としてデモ隊が求めるのは時給15ドル。対して、当時のワシントン州の最低賃金(時給換算)は9.32ドル。6割増の賃上げ要求を前に何をどういう順番で考えたかという記述は、会社が従業員の給与をどう決定するのかのリアルな解説になっている。
 ひるがえって日本を見れば、一括採用・年功序列に象徴される伝統的な雇用形態は壊れつつある。外資系企業に就職したり起業したりする人も増え、半数以上の企業が正社員不足と感じているというデータ(帝国データバンク調べ)がある一方で、ジョブ型雇用(必要な職務に適したスキルや経験を持った人を採用する雇用方法)を全社的に採用する企業も出てきている。
 本作の解説で経営学者の楠木建が書いているように、会社側の視点に立てば、「賃上げ」「働き方改革」「人的資本経営」「ジョブ型雇用」といった昨今の経営課題は結局のところ給料の問題に行き着くのだ。そうした根本問題について、体験ベースの考察を警句やウイットを交えながら書いてあり、面白かった。

日本を「ウチの縄張り」と嘯く工作員
 もうひとつ、ニュースと本が妙にシンクロする経験をした。ニュースは、中国軍のハッカーによる日本の防衛機密ネットワークへの侵入を米ワシントン・ポスト紙が報じたもの。記事は、日本のサイバー防衛能力の低さは日米安保の穴になっているとして、日米の情報共有に支障が生じる可能性も指摘していた。このニュースとほぼ同時期に手に取ったのが櫻井よしこの『異形の敵 中国』だ。15年前にベストセラーになった著作『異形の大国 中国』に続く最新刊である。
 櫻井によれば、中国の工作員は日本を「ウチの縄張り」と嘯(うそぶ)いているそうだ。じっさい本作でも、飲食代欲しさに世界屈指の潜水艦技術を他国の工作員に漏洩した防衛省の技官や、居酒屋やファストフード店で半導体の製造技術を渡した東芝子会社社員の例などが紹介されている。〈ある夜、彼らは居酒屋を出て駅まで並んで歩いたという〉。櫻井はそう書いて、〈スパイとその協力者が堂々と肩を並べて歩く。こんな緩みきった事象は、いくら技術が発達して情報受け渡しの形態が変わったからといって、他国ではあり得ないことだ。スパイ防止法もなく、罪も非常に軽いスパイ天国、日本ならではの現象であろう〉と憤る。穴だらけの日本といえば古川勝久による『北朝鮮 核の資金源』を思い出すが、そういう不備や緩さを決して見逃さないのが中国だ。
 櫻井は産経新聞・宮本雅史編集委員の指摘を紹介する。
〈氏は、2018年に李克強首相が北海道を訪れたときから中国人の日本の国土買収のパターンが変わってきたと述べる。かつて点として買っていたのが、今は線として買っているというのだ〉
 たとえば、青森県三沢基地に近い、岩手県安比高原のインターナショナルスクール、宮城県仙台空港周辺の土地、仙台市の自衛隊基地付近で計画されている大物流センターというふうに辿っていくと奇妙なものが見えてくる。ここに列挙した以外の土地取引も含め「中国資本」「中国系資本」で括ると、
〈青森から東京まで国道4号線沿いの点と点が1本の線でつながり、その線上に自衛隊の基地や、その基地につながる物流センターの所在が浮上するとも宮本氏は指摘した〉
 土地買収だけではない。櫻井は、外為法の穴を衝いて最新技術を奪う手口や日本人の払う電気料金が中国企業を潤すカラクリなども具体的に記し、日本側の〈考えは甘く、制度は緩い〉〈これでは中国が狙うのも当然だろう〉と警告する。

南太平洋でのオセロゲーム
 櫻井はこうも書く。
〈この数週間、つい視線が向かう地図がある。太平洋を挟んで、右に南北米大陸、左にユーラシア大陸があり、核保有国を赤く塗った地図だ。ロシア、中国、北朝鮮を中心にユーラシア大陸は赤く染まり、北米は米国が赤い色に染まっている。そのまん中、太平洋の左端にポツンとわが国日本が心細げに浮かんでいる。今、世界で一番危険な地域は大西洋・欧州ではなく、太平洋・アジアであり、わが国周辺なのだと実感する〉
 日本から世界に目を転じると、各国のパワー・バランスは大きく変化しようとしている。国際社会の力関係に隙間が生ずればサッと入り込む。勢力拡張のチャンスは決して逃さない。それが中国のやり方だ。櫻井はたとえば南太平洋諸国をめぐる動きを追跡する。舞台は人口70万人のソロモン諸島だ。
〈ソロモン政府のソガバレ首相が台湾と断交し中国と国交を樹立したのが2019年だった。当時、オーストラリア国営放送(ABC)は、5億ドル(550億円)の支援が中国共産党からソガバレ政権に渡ったと報じた。その時点で中国はすでにソロモン政府のトップを賄賂を含む巨額資金で抱き込んでいた。南太平洋でも最も貧しいソロモンは、わずか550億円で国家の未来を中国に売ったといえる〉
 そして2022年4月、中国はソロモンとの安全保障協定締結を発表した。
〈中国海軍の艦船が定期的にソロモンに寄港し、加えて中国公安警察がソロモンの治安維持のためにソロモン当局を指導し訓練することなどが取り決められた。突然の発表に米豪両国は虚を衝かれた。経緯をふりかえれば中国が綿密な準備を重ねて機会を待っていたことが明らかだ〉
 しかし、ここから思わぬ事態が発生した、と櫻井は書く。安全保障協定が発表まで全く秘密にされ、他の南太平洋の国々にとっては寝耳に水だったために強い反発が起きたのだ。
〈サモアの首相、フィアメ・ナオミ・マタアファ氏は中国の行動に強く抗議した。
「ある国が資産を持っていて、ある国に助力してくれたからと言って、それを好機としてその国の公安警察が入ってくるのか。このようなことはソロモンに限って起きたのかもしれない。しかし、それが容易に他国に広がらないように注視しなければならない」
 元々、中国の動きは新たな冷戦を招くとして反対していたミクロネシアのデイビッド・パヌエロ大統領は、「中国の動きはより大きな目的を隠すための曇りガラスだ。中国は我々南太平洋の安全保障をコントロールすることを目指している」という厳しい中国非難の手紙を南太平洋の国々に送って警戒を呼びかけた。
 その結果、フィジーはこれまで何年間か続いていた中国当局による公安警察トレーニング制度を直ちに停止した。ソロモンのツラギ島に中国が75年間のリース契約を設定しようとしたこと、キリバスのカントン島に滑走路を建設しようと動いていたことなども明らかになった。
 中国への警戒心が高まった今、米豪ニュージーランドなどへの信頼は逆に強まった。ブリンケン米国務長官が(2023年)5月21日、パプアニューギニアを訪れ安全保障に関する協定を二つ、結んだ。詳細はまだ発表されていないが米国とフィリピンの協定とほぼ同じ内容だと報じられた。有事のとき、米軍がパプアニューギニアの基地に展開できるというのが最大のポイントである。また米コーストガードがパプアニューギニアの巡視船に同乗してパトロールを助けることになった〉
 まるでオセロゲームのような国際政治の実際を世界地図の上に重ねてみせながら、櫻井の目は台湾へと向かう。
 元陸上幕僚長の岩田清文によれば、2020年10月に、台湾空軍の参謀長がその年の1月から10月までの緊急発進の回数を発表した。中国人民解放軍(PLA)機による領空侵犯に対応したもので、その数、4596回。〈10か月で4596回ということは1日平均で15回以上になる〉〈PLAは悪魔のような執拗さで、台湾を圧迫する〉と櫻井は書く。パイロットは緊張の毎日で心身がもたない。機体の整備も十分にできない。燃料代もバカにならない。そこで台湾は平時の対領空侵犯措置をギブアップした。領空主権という絶対的主権を手放してしまったのだ。台湾有事は、刻一刻と近づいているようにみえる。そして、本作では台湾有事をきっかけに中国がどのように日本を攻撃するかについても具体的にレポートしている。
 現実が本作を追いかけないことを祈るが、櫻井はきっとこれからの道筋も克明に記していくのだろう。


 (あわなみ・かおる 翻訳家/便利屋)

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