書評
2023年10月号掲載
特別書評 杉井 光『世界でいちばん透きとおった物語』新潮文庫nex
『世界でいちばん透きとおった物語』はすごい!
「何を書いてもネタバレになる」「これは予想できない……」口コミから火がついて30万部突破の大ヒット中!
発売直後から本書に驚嘆し、熱烈に支持するミステリ編集者の戸川安宣氏が、その無類の魅力を語る――
対象書籍名:『世界でいちばん透きとおった物語』
対象著者:杉井光
推理小説――就中(なかんずく)論理性を重んじる謎解きミステリを好む人たちは、趣向を凝らした仕掛け本に目がない。
意想外の結末が待っている小説があると聞けば、それは何という作品かとたずねる。
結末に封をした小説が出たと知れば飛んでいく。
児戯に類すると言われようと、外連(けれん)に無関心ではいられないのだ。
どんなに年老いても、遊び心を忘れない。実は、騙されるのが好きなのである。それも気持ち良く騙されたら最高だ。
推理小説は百八十年前に、ポオが骨格を作り上げて以来、徐々に進化を遂げてきた。
時には厳しい戒律を定めさえして。
「ノックスの十戒」とか「ヴァン・ダインの二十則」というルールが議論の的となる。
推理小説のあるべき姿が問われ、読者に対するフェアプレイが尊ばれるようになる。
推理のデータはすべて与えられた、論理的に考えれば、唯一の解答に到達することができる、と読者に対して挑戦する作品まで登場した。
「この探偵小説には私が懸賞をだします。犯人を推定した最も優秀な答案に、この小説の解決篇の原稿料を呈上します」と、連載の第一回で大見得を切ったのは坂口安吾であるが、こうなると結末を袋綴じにしてしまおう、と考える著者が出てくるのも当然だ。
さらには、警察における《犯罪調書(クライム・ドシエ)》に似せて証拠品を添付する作品まで出現する。
1936年に刊行された“ Murder Off Miami ”という作品には、血痕の付いたカーテン生地やマッチの燃え殻などが添付されていて、宛(さなが)ら証拠品を貼り込んだ調書を彷彿させる造りとなっていた。これが話題を呼び、日本でも翌年に翻訳が刊行されている。原作に比べると調書としての体裁ははるかに劣るが、こういう仕掛けを喜んで、邦訳を試みようとした同邦の士がいたことには感動を覚える。
半世紀近く後、本国で復刻されたときには、日本でも原書通りの体裁で刊行された。
ともに評判は上々だったとみえ、二匹目の泥鰌(どじょう)を狙い英国ではホームズ譚の長編を調書仕立てにし、日本では漫画仕立てや裁判調書仕立てにするなど、工夫が凝らされた。
編集者の遊び心に火が点いたのだ。
そんな中、一〇〇パーセント作者の努力に依って完成した仕掛け本が、日本で生まれた。それがA先生の作品だった。
それこそ本書の著者を感激させ、今回の創作のきっかけとなった二つの作品である。
その初めの作品は昭和六十二年、今から三十六年前に刊行された。
本書と同じ新潮文庫の一冊として、上梓された。
カバーの紹介文に「著者が、この文庫本で試みた驚くべき企て」とあった。直ちに読んで、一読三嘆した。
一体、どうしたらこんなことができるのだろう? 超絶技巧とはまさにこのことだ!
あとでうかがうと、この本の著者は刊行本の字詰めと同じ原稿用紙を造り、手書きで升目を埋めたという。
ところで七年後の平成六年に、A先生はまたしても、とんでもない作品を発表する。
巻頭の一ページ目に「この本の読み方」とある。
トリセツ(取扱説明書)が付いている文庫本というのも、珍しい。
同書の帯の惹句に「世界出版史上に輝く驚愕の書」とある。世界出版史上とは大きく出たもの、と思うが噓ではない。
全編袋綴じで造られているこの本をそのまま読むと二十五ページの短編小説である。
そこで、袋綴じを開いてみると――
「僕の生涯で最も激しい驚愕を伴う読書体験を与えてくれた」作品を、探してほしい。
ぼくが本書を読んだきっかけは、公立図書館の職員がウェブ上で呟いた言葉だった。
五月三日のツイート――「亡くなった父親?である小説家の遺稿を探すミステリですが……参考文献のあとのページにあぁと思いました」
「本が好きな人にはぜひ読んでほしいです」と結ばれていた。なにか仕掛けがありそうな匂い、そして本好きに勧めるという一言。それまで失礼ながら著者のことを存じ上げず、そういう本が出ていることも知らなかった。己の不明を恥じて、書店に直行した。
慌てて検索してみると、つい数日前に出たばかりの新潮文庫nexの最新刊だった。
推理小説をあまり読まない、という主人公にしては、「ホロヴィッツの『カササギ殺人事件』みたいな」などというマニアックな比喩が使われたりする。だが、主人公はどうあれ、作者はなかなか手練(てだ)れのミステリ・マニアとお見受けした。全編にわたってさりげなく、伏線が張り巡らされている。ネタバレぎりぎりのところで言うと、巻末の参考文献などは著者が仕掛けた燻製鰊(レッド・ヘリング)の好例だろう。
著者のギミックに感動してこのような駄文を弄したが、己の非力を恥じるばかりだ。
著者が敬愛するA先生の本の巻末で、松田道弘さんが、推理小説ファンは作者のたくらみを楽しみたいのだ、と述べている。そして、たくらみとは、だましの工夫だ、と。
これ以上の説明は必要ないだろう。
本書を愉しまれた方にお勧めしたい作品が、ひとつある。竹本健治さんが2016年に上梓した『涙香迷宮』である。
今は文庫になっているこの作品、仕掛けの質は違うが、創作上の労苦は変わらない。
本書が気に入った方なら、必ずや面白く読んで下さることだろう。
最後にひとつ、これだけは是非言っておきたい。
仕掛けの凄さに目を奪われがちだが、本書は優れた推理小説であり良質のエンタテインメントである、と。
先行する二作品の著者とともに、杉井光さんに深甚なる敬意を! ご苦労様でした。
※「波」本誌2023年10月号掲載のこの書評は、本書を読んだ後に再読すると、さらに楽しめます。