書評

2023年10月号掲載

京都の変則的な都市発達史

有賀健『京都―未完の産業都市のゆくえ―』(新潮選書)

井上章一

対象書籍名:『京都―未完の産業都市のゆくえ―』(新潮選書)
対象著者:有賀健
対象書籍ISBN:978-4-10-603901-0

 京都は日本文化をつたえる都市だと、よく言われる。くらしぶりのすみずみに日本の伝統がいきづくと、ごくふつうに語られる。
 だが、近現代の京都は、他の大都市とことなる途(みち)をたどってきた。東京や大阪をはじめとする諸都市が、一九、二〇世紀に変容をとげていく。その一般的な推移が、なかなか京都にはおよばない。日本としては例外的なコースを、歩んできた。
 日本文化の代表格めいた都市になったのは、こういう変則的な都市発達史のせいである。著者の言わんとするところを、ごくかんたんにまとめれば、そうなる。そして、その指摘は、図星をついていると思う。
 著者は統計的なデータを、縦横に駆使している。いわゆるエビデンスも、可能なかぎりあつめきった。京都の近現代史は、これこれの点で、他都市とくらべゆがんでいる。そんな叙述にも、有無を言わさぬ説得力がある。こんなデータが、こういうところに活用できるのかと、あちこちでうならされた。
 京都については、いろいろなことが、さしたる検証もなく語られやすい。たとえば、古い街だが、新しいベンチャー・ビジネスも数多くはぐくまれてきた。伝統をとうとぶ精神と新奇をおもしろがるそれが、京都では同居している、と。
 しかし、著者は両者の分断を特筆する。尖端企業は、京都の市中をはなれた南西部で開花した。老舗がつどう中心街との間には溝がある。共存は、していない。ベンチャーのはばたく南西部は、京都より阪神間との連携に活路を見いだしてきた、と。
 京都では、いわゆる郊外が、なかなか発展しなかった。その理由を、かつて私は、京都の文化的な凝集力で語ってしまったことがある。祇園祭や大文字の送り火をむかえる市中から、町衆ははなれがたいのだ、と。
 著者が、この見方をまっこうからしりぞけているわけではない。しかし、まずは経済的な諸指標から、事態をとらえようとする。企業規模、交通流通事情など、数字で把握できそうな部分の読み解きからはいっていく。京都を論じる人が、あまりふれようとはしてこなかった。しかし、じっさいにはとても大事な実態の認定から、この郊外論へもせまっている。
 文化論の出番は、それらが論じつくされたあとに用意されるべきだということか。はじめから文化的な凝集力をうんぬんする私などは、はじいるしかない。
 いわゆる京料理は、二〇世紀末から飛躍的に成長した。小規模な対面型の料理店が、長足の技術革新をなしとげている。その説明も、店舗群の集積をしめす指標、数字でほどこされる。なるほどと思う。私がいちばん感心したのは、この外食業を語るくだりである。
 京都の大学でまなぶ若い人は多い。しかし、大半の人たちは、卒業と就職で京都をさる。そのまま、この街にとどまる人は、あまりいない。京都には、彼らをうけいれる勤め先が、ほとんどないからである。
 この現象も、近現代京都のゆがんだ都市史に起因すると、著者は言う。おっしゃるとおりであろう。だが、事態を改善するための提案には、違和感をいだく。
 著者は言う。京都でも、市の北部にまでハイウェイをとおせ。市中の経済活動をしばる建築規制は、あらためよ。東京や大阪と同じようにすれば、京都はもっと活性化しうる。ふつうの都市になれば、ふつうの発展が見こめるはずだというのである。
 これには、どうしてもなじめない。私は若いころに、フィレンツェやベネツィアを見て感激した。ルネサンス期の街並みをたもっている都市の姿に、うちのめされている。京都の洛中にも、ベネツィアなどの爪の垢をせんじてのませたいものだと思ってきた。
 祇園祭は、市中のケガレをはらう祭礼でもある。そこではらわれたケガレは、洛外にとびちる。私はそんな洛外地のひとつである嵯峨にそだった。洛中の清浄をのぞむ町衆には、敵愾心をいだく。それだけケガレがいやなら美観の保存にもつとめろよと、言いたくなる。
 著者は京都の発達史を変態的であるという。しかし、イタリアの古都は京都をはるかに凌駕する水準で、都市の旧観をたもってきた。こういう都市のことを、著者はどううけとめるのだろう。病的な変態だと思うのか。
 機会があれば、お話をうかがってみたいものである。


 (いのうえ・しょういち 国際日本文化研究センター所長)

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